「提督、ごきげんよう。潜特型二番艦伊401です。
しおいって呼んでね」
伊401(い -)とは、大日本帝国海軍の潜水空母こと潜特型(伊四百型潜水艦)2番艦「伊401」をモデルにした、ブラウザゲーム『艦隊これくしょん~艦これ~』に登場する艦娘(かんむす)である。
担当声優は伊瀬茉莉也。担当イラストレーターはしばふ。
2013年12月~2014年1月にかけて開催されていた、アニメ『蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-』とのコラボイベントにて新規実装された艦娘。同アニメの主役艦「イ401」と元ネタが同じ艦であり、しばふ氏の描いた第1話エンドカードでその姿が公開されていた。伊168以外の潜水艦は改造すると潜水空母になるが、この艦は元ネタがそうだったため、改造する前から潜水空母である。
レア度は現在の潜水艦娘の中では最高となるホロレアで、正式実装の暁には建造・ドロップでも相応の難易度になると思われ、特に建造は、世界一巨大な潜水艦型であったことから大型艦建造での建造になる可能性が高いという見方も多い。2014年9月26日大型艦建造にて建造可能となった。大和型やビスマルク狙いの戦艦レシピにて建造が確認されており、建造時間は3時間20分である。24分で造れる他の潜水艦と比べると破格の所要時間と言える。
そして後に実装された中部海域(6-1)でもドロップが確認されている。ただし伊401がドロップするマスはボスルートから外れたハズレマスであり、しかも3分の2の確率で空母棲鬼が出るという鬼畜の極みである。それでいてS勝利限定+超低確率なため、難易度は凌雲の如く高い。たとえ勝てても大損害は免れないのでドロップ狙いは至難の業だろう。
潜水艦娘は艦名が数字である為か、これまでの4隻は全員数字にちなんだ通称を名乗っていたが、伊401は通称を付けにくい数字と言う事で、エンドカード公開当時から「しれい」、「イオナ」(コラボ先の潜水艦と同じ)などの様々な通称が予想されていたが、実際に出てきた彼女が名乗ったのは「しおい」であった。決して「しおいやん」ではない。
ビジュアルは小麦色に日焼けしたポニーテールの少女であり、肩から大きな艤装を下げている。服装はスク水セーラーであり、中破絵からゼッケンに「イ401」と書かれているのが確認出来る。手に紙飛行機のように持っているのは、元ネタが艦載機として積んでいた水上攻撃機「晴嵐」だろうか。
また、これまでの潜水艦娘が排水量の多さに比例するかのように(実際、排水量の多さは168<58<19<8である)大きくなっていたのとは一線を画し、彼女は平坦である。
ちなみにしばふ氏曰く「しおいは下は日焼け跡があるけど上は全部日焼けしている」らしい。彼女の焼いている姿をぜひとも拝みたいものである。
潜ることが大好きなようで、時報ボイスで朝から潜る習慣があることが確認出来たり、つつくと潜るかどうか聞いてきたり、小破状態で入渠させると湯船に飛び込んだりもする。海はともかく湯船に飛び込むのはマナー違反であるし危険なので決して真似をしてはいけない。
改造すると艦載機であった「試製晴嵐」を持って来てくれるので、彼女の自慢の晴嵐と酸素魚雷の合わせ技をかましたり、イベント報酬のもう一つの晴嵐と合わせて潜水空母最多の6機の艦載機を使用したり出来る。搭載数こそ心もとないが、この試製晴嵐は爆装が艦爆の彗星十二甲を上回るという代物であり、運用次第では面白いかもしれない。実際にはより搭載数の多い航空戦艦や航巡に積んだ方が強いであろうことは内緒。
伊四百型潜水艦の史実については「伊四百型潜水艦」もしくは「潜水空母」を参照して頂くとして、ここでは伊401自身の史実を述べるに止めたい。
伊401、正式には潜特型(伊四百型)潜水艦2番艦「伊号第四百一潜水艦」は1943年4月26日に起工し、1944年3月11日に進水。1945年1月8日、海軍佐世保工廠にて竣工した。しかしこの時、既に戦局は……みなまで言うまい。
その後、内海にて訓練をしていたが、その間の4月2日には伊予灘で機雷に接触して小破し、呉に引き返している。ちなみにこの頃の呉は機雷封鎖されており、戦艦「大和」や軽巡「矢矧」達は、呉に戻ることもできず、徳山沖からそのまま沖縄に向かって出撃している。
その後の6月、伊401は七尾湾で1ヶ月間訓練に従事。晴嵐の完熟飛行訓練を行った。
この頃の戦況は最早絶望的で、日本本土は毎日のように米軍の空襲を受けていた。軍上層部は、米軍の前進拠点であるウルシー環礁をどうにか攻撃できないかと策を練る。そこでまず偵察のため、彩雲を搭載した伊13と伊14がトラック諸島に向けて出撃(光作戦)。そこから得られた情報を以って、伊400型潜水艦が擁する晴嵐部隊にウルシー環礁を攻撃させるという計画(嵐作戦)が立案され、6月12日頃に実行が決定。6月25日、正式に命令として発令された。
7月13日、米潜水艦を警戒しながら七尾湾を出港。日本海側に脱出して、夕刻に舞鶴へ入港。最後の食料・弾薬補給を行った。7月23日、ネームシップである伊400と共にウルシー泊地(フィリピンとグアムの間くらいに位置し、アメリカ軍の日本攻撃の拠点となっていた)を攻撃せよとの命令を受けて、第一潜水隊司令の有泉大佐[1]を乗せて、出撃基地である大湊への回航が決まる。
この作戦は、搭載していた晴嵐によって泊地を爆撃するというものであり、言うまでも無く帰る見込みのない作戦であった。
舞鶴出港前日、伊401の上甲板において短刀授与式が執り行われ、晴嵐搭乗員一人一人に有泉司令から白鞘の短刀が授与された。帰還の見込みが無い搭乗員たちは特攻隊の扱いとされ、有泉龍之介司令の名前から「龍」の一文字を取って、神龍特攻隊と名づけられた。
7月20日、舞鶴を出港。掃海艇に誘導されながら北上し、津軽半島を大きく回りながら陸奥湾に入り、翌21日に大湊へ入港する。入港後、1日の休暇を与えられた乗員たちは上陸し、これが最後に踏む内地の土だと覚悟したという。その間、晴嵐の日の丸を米軍の星マークに塗り替える作業が行われた。
7月24日午後2時、大湊より姉の伊400が先に出撃。続いて2時間後の午後4時に出港予定のラッパが鳴り響き、伊401も出撃する。第一潜水戦隊の有泉司令と艦長の南部少佐が搭乗。短波マストに軍艦旗と「大日本国者神国也」と書かれた幟を掲げ、伊401は静かに出港していった。隠密作戦のため見送りはなかった。函館航路を抜けて室蘭航路に差し掛かったころ、何隻かの汽船や輸送船とすれ違った。
日も暮れた夜、津軽海峡を東へ向けて航行する伊401。そこへ突如潜行命令が下される。乗組員たちは慌てて配置に就き、潜行準備を整える。すると北海道側の陸地から砲声が聞こえ、伊401の左舷後方300メートルに着弾した。この辺りには陸軍の要塞が存在し、暗がりの中で伊401を敵艦と誤認してしまったようだ。誤認された伊401は潜行し、夜明けとともに津軽海峡を突破。友軍からの誤射を受けたので、日本の勢力圏を出るまで昼間は潜行、夜間のみ浮上して航行した。出撃から3日後、勢力圏を脱してからは昼夜を問わず浮上して目的地に向かった。
5日目、北上する台風に巻き込まれた伊401は暴風圏の中を航行した。激しく波が打ちつけ、巨体を誇る伊401の船体も呑み込まれそうになった。そのため台風が通過するまでの2日間を潜行して過ごした。
台風が過ぎ去り、ようやく顔を出せた伊401は南鳥島付近に差し掛かった。ここで電探室から「200キロに飛行機発見」の報告が入る。その飛行機は伊401に接近しており危機感を覚えた艦長は潜行を命じ、飛行機が過ぎ去るのを待った。1時間後、安全を確認して浮上した伊401は今後の航路について艦長と司令が協議した。
有泉司令は、直接南下して目的地に向かうという予定の航路で行くと言い、航路の変更には難色を示した。一方の南部艦長は直接南下するのは危険と考え、東に迂回するべきと主張した。結局、艦長の意見が採用され伊401は東へと迂回した。
米軍の対潜網が敷かれていたが、伊401は潜行や無音潜行を何十回も繰り返し、これを突破。米軍艦艇は航路以外には存在せず、航路から外れるように航行していた伊401は会敵せずに済んだ。ここで伊401より先に出撃し、トラック諸島に彩雲を運んでいた伊13の沈没が乗組員に知らされる。この事に乗組員たちは一様に不安を抱く。伊58によるインディアナポリス撃沈で焦燥した米軍は対潜網を更に強化し、トラック諸島に彩雲を運べた伊14もかなりの苦戦を強いられ、撃沈寸前にまで追いやられていたという。
8月14日の日没、ついに伊401は目的地である合流地点に浮上する。本来ならばこの地点で伊400と合流し、作戦の打ち合わせをした後、再び分かれて西進。8月17日の午前3時にウルシー環礁南方で再合流し、晴嵐6機を出撃させて奇襲を敢行するはずだった。
しかし、大湊から出撃したはずのお姉ちゃんは、合流地点(ミクロネシア諸島のポナペ島沖)にいつになっても現れない[2]。これ以上待てないと、伊401は単独攻撃を決め、作戦を決行しようとした。
まさにその前日に、遙か日本から届いた一通の電文、それは終戦を知らせるものだった。時に8月16日のことである。
艦内では、自沈するか降伏するかで激論となったが、最終的には艦長の南部少佐の決断によって日本に帰還して降伏することとなり、伊401は針路を大湊へ向けた。
ボナペ島西方を通過し、南鳥島西方を浮上しながら航行。夜間、米軍航路を横切っている時に見張り員が船影を確認し、伊401はただち潜行。伊401の頭上を複数の船が通り過ぎていった。時には潜行し、時には水上航行で内地を目指していた8月26日、「連合国軍との終戦協定により作戦海域より帰投中の日本艦艇はマストに、黒球と黒の三角旗を掲揚せよ」との命令が下る。伊401はこの命令に従い、指定された標識をマストに掲げた。北緯26度線まで北上したところで搭載兵器の海中投棄を行った。まず晴嵐を無人のまま1機ずつ海面へ射出。放り出された晴嵐はしばらく浮いていたが、やがて海中に没した。次に魚雷を発射管から次々に射出し、投棄。暗号書や機密書類は米の空袋に入れ、浮かばないよう重みとして主砲の弾1発を中に入れて海中に捨てた。
28日には三陸沖にまで到達し、母港の大湊までは後少しの距離にまで迫った。明日の昼ごろには入港できるだろうと予想された。
しかし、8月29日深夜、三陸沖で米潜水艦「セグンド」と遭遇。両方とも浮上航行中だったが、闇夜だったため、「セグンド」は当初伊401に気付いていなかった。このため、これ幸いとそのまま逃げようとした伊401だったが、ここで無念にも左舷主機が故障して速度が出せなくなり、気が付いた「セグンド」に追いつかれてしまい万事休す。「セグンド」は、探照灯で「停船せよ」と伝えてきた。伊401は艦長の命令で、やむなく夜明けを待って米軍に投降。「セグンド」は伊401右舷300メートルの所まで接近し、「命令を聞かなければ、ただち撃沈する」と脅しをかける。続いて「交渉の要あり、軍使一人を派遣せよ」と伝えてきた。これに対し伊401側は「我ボート無し」と返信。すると「セグンド」からボートが用意され、航海長が軍使として「セグンド」に派遣された。
「セグンド」に乗り込んだ航海長は、これまでの伊401の行動を聞かれた後、「東京湾までついて来い」と言われる。これに対し伊401は「本国から連絡が来るまで返事を待ってほしい」と回答。「セグンド」は返事を待った。4時間後、日本から伊401に「米潜について東京湾に行け」との連絡があり、乗り込んできた8人の米兵によって横須賀に回航されることになってしまった。その時、米兵は伊401の砂時計や海図といった調度品を戦利品として持ち帰ったが、我先に調度品を奪い合ったため米兵同士の争いが起きたという。
なお、最後まで投降に反対していた有泉司令は8月31日、伊豆大島沖に差し掛かったところでピストル自決をしている。伊401の乗組員で自決したのは彼一人だけだったという。米兵には分からないよう、遺体を軍艦旗に包んで第二ハッチから水葬した。
相模湾に入ると先導する艦が「セグンド」から駆逐艦に変わり、8月31日夕刻に横須賀へ到着。奇しくもその前日に同じく米軍の手で横須賀に回航されていた伊400と再会する。その後、2隻は共に佐世保に回航され、さらに翌年、ハワイに移動して技術調査された後、共にハワイ近海に沈められた[3]。ちなみに伊401を初めて見た米兵の言葉は「ワンダフル!」だったと言う。
その後、2005年になって、ハワイ大学の研究チームによって海底に横たわる伊401の姿が発見されている。
1945年9月15日、除籍。
ちなみに終戦を迎えず、作戦通りにウルシー環礁を攻撃した場合、晴嵐は特攻機のように敵艦船に突入、もしくは搭載された爆弾で敵艦隊を爆撃し、帰投時はパイロットのみを回収して晴嵐を放棄する事が想定されていたという。作戦終了後、伊401はシンガポールへ回航。次の作戦に備えて待機する予定だった。決号作戦の戦力に伊401が加えられていた事から、1945年10月頃に本土へ帰還し、上陸してくる米軍を迎撃したと思われる。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/09(火) 15:00
最終更新:2025/12/09(火) 15:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。