佐々木主浩とは、かつてNPBの横浜ベイスターズとMLBのシアトル・マリナーズで活躍した大魔神である。
1968年2月22日午前2時22分生まれ、宮城県仙台市出身 右投右打
この生年月日時刻が由来となり、背番号は一貫して22だった。
東北高校、東北福祉大学を経て、1990年、当時まだ大洋ホエールズと名乗っていた横浜へドラフト1位で入団。
当初は先発に回ることもあったが、1991年、それまでクローザーを務めていた遠藤一彦の故障離脱を受けて抜擢されると、三者連続3球三振を記録するなど抑え投手として定着。途中、故障で低迷した時期もあったが、1992、1995~1998と、通算5度最優秀救援投手を受賞するなど、盛田幸妃とともに、横浜の守護神として活躍。他チームの首脳陣からは「横浜との試合は佐々木の登板しない7回までが勝負」とまで言わしめた。
当時のサンケイスポーツの読売ジャイアンツ担当記者が、対戦チームにとっては悪魔のような守護神という意味を込めて、記事内で魔神と表現。ここから「ハマの大魔神」という愛称に発展した。
横浜が改称後初のセリーグ優勝と日本一を飾った1998年には、横浜駅東口の地下街に、優勝祈願のための「大魔神社」が臨時で設置される、流行語大賞を受賞する、自身も51試合56.0回で45セーブ、防御率0.64を記録するなど、1990年代を代表する抑え投手として大活躍した。
みずしな孝之により「ササキ様に願いを」という題名で漫画化され、ヒットする。
1999年に取得したフリーエージェント権を行使して、2000年にマリナーズへ移籍後も、新人王受賞、2001年と2002年のオールスターゲーム出場など、相変わらずの活躍を見せる。しかし、2003年に故障が続いたこともあり、マリナーズとの契約を1年分破棄して、2004年に横浜へ復帰する。
故障の影響もあり、かつてほどの勢いはなくなっていたが、前半戦は無難にクローザーを務める。しかし、8月に救援失敗が続いたことを受けて、引退の意向を表明するも、球団からの慰留で撤回。翌2005年になっても調子が上向かず、その間のマーク・クルーンの代役定着、またクルーンを中心とした救援ユニット「クアトロK」の活躍もあって出番がなくなり、2005年8月、正式に引退を表明。本人の希望から、地元仙台での巨人戦が引退試合となった。
余談だが、この年から東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となり、交流戦も始まったためか、2006年以降、仙台市は巨人の地方巡業シリーズ開催地から外れている。
引退後は、横浜の親会社であるTBSでの解説が活動の中心となっている。
また、2007にJRAの馬主免許を取得。
「マジン」を冠名として競走馬の所有者登録もされており、2012年7月現在すでに重賞を3つ勝利している。
持ち球は、150km/hの速球、140km/h弱のスピードと落差を併せ持ったフォークのほぼ2種類。カーブも投げられるが、ごくたまに投げる程度だった。
必殺球のフォークは、前述の通り、回転数よりも重力で落とす従来のものとは違い、速球同様の回転が加えられている。また、ボールにはかすかに横回転が加えられていることで落差がつき、投げられた直後は球種を判別しづらかったという。
近年の抑え投手に求められがちな、常時145km/h以上を計測できる速球と、縦変化の強い必殺球という要素は、佐々木のイメージによる部分も大きい。
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最終更新:2024/04/20(土) 10:00
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