信教の自由とは、日本国憲法第20条で保障されている基本的人権である。
憲法学のなかでは「信教」と「宗教」がおおむね同じ意味を持つとされている[1]。
宗教について、高等裁判所の判決で「憲法でいう宗教とは『超自然的、超人間的本質(すなわち絶対者、造物主、至高の存在等、なかんずく神、仏、霊等)』の存在を確信し、畏敬崇拝する心情と行為をいう」と定義されている[2]。
信教の自由とは、このような「存在の確信」や、「存在の確信」に関わる行為について、政府などの公権力によって妨害されないことを意味する。
信教の自由と政教分離の原則を示したのが日本国憲法第20条である。
日本国憲法第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、 又は政治上の権力を行使してはならない。
2. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3. 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
日本国憲法が保障する「信教の自由」は3つに分類でき、そしてさらに分類することができる。
前項における「1.内心における信仰の自由」は、日本国憲法第19条で保障される「思想及び良心の自由」と同じく、絶対的に保障され、制約されることがない[3]。
政府は、個人に対して一定の信仰を捨てるように強制することが許されず、Ⅰ.の「積極的信仰の自由(信仰をもつ自由)」を絶対的に保障しなければならない。江戸時代のキリシタン禁教令のような法律を作ると違憲とされる。
政府は、個人に対して一定の信仰を受け入れるように強制することが許されず、Ⅱ.の「消極的信仰の自由(信仰をもたない自由)」を絶対的に保障しなければならない。政府が一定の信仰を組織的に宣伝したり教化したりすることは違憲とされる。
政府は、個人に対して信仰の告白をやめさせることが許されず、Ⅲ.の「積極的信仰告白の自由(告白をする自由)」を絶対的に保障しなければならない。個人の告白行為について、その態様いかんによっては「表現の自由」に関する法理で政府が制約することもありえないではないが、原則的に制約することが許されない[4]。
政府は、個人に対して信仰の告白を強制することが許されず、Ⅳ.の「消極的信仰告白の自由(告白をしない自由)」を絶対的に保障しなければならない。政府が「どのような信仰を持っていますか」とアンケートを出す場合に、「無回答」の項目を作らずに「回答しなければ罰金を課します」と述べて回答を強制すると、そうした行政は違憲とされる。
前々項における「1.内心における信仰の自由」は内心領域に関するもので、「2.宗教的行為の自由」「3.宗教的結社の自由」は外部的行為に関するものである。
「2.宗教的行為の自由」「3.宗教的結社の自由」は、公共の福祉を口実として政府によって制約されることがあり得る。
基本的人権は、一切の制約を受けないものではなく、他者に危害を加えない範囲の中で尊重されるものである[5]。「信教に基づく外部的行為」で他者の生命・財産・自由に危害を加える人に対し、他者加害原理[6]に基づいた公共の福祉を口実として、「信教に基づく外部的行為をする自由」という基本的人権を一部制限することは大いにありうることである。
ただし、「2.宗教的行為の自由」や「3.宗教的結社の自由」を制約することにより、結果的に「1.内心における信仰の自由」を事実上侵すおそれが多分にあるので、その制約をする場合は最大限に慎重な配慮を必要とする[7]。
宗教的行為の加持祈祷をしたことで少女を死に至らしめた僧侶に対して、傷害致死罪が適用された。
学園闘争をして建造物侵入の罪を犯した高校生2人をキリスト教の牧師が約1週間かくまった。牧師は犯人蔵匿の罪で起訴されたが、高校生2人をかくまった行為が宗教的行為(伝道・布教)に当たるとして無罪判決が出された。牧師は高校生2人に対して約1週間にわたって教義の伝道を通じて地道な自己省察をさせており、その結果として高校生2人が心の落ち着きを取り戻して自己の行為を反省し自主的に警察署に出頭している。
1995年3月20日に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教に対し、東京都知事が宗教法人法第81条に基づいて東京地方裁判所に対して解散命令の請求を行った。1995年10月30日に東京地裁は宗教法人オウム真理教に対して解散命令を出した。オウム真理教は、「法人格を有していて法人税が基本的に免除される宗教団体」としては解散したが[8]、「法人格を有しておらず法人税が免除されない宗教団体」として存続することを許された。
組織的に霊感商法を行っていた宗教法人明覚寺(本覚寺)に対し、1999年12月16日に文化庁が宗教法人法第81条に基づいて和歌山地方裁判所に解散命令を請求した。和歌山地裁は2002年1月24日に宗教法人明覚寺に対して解散命令を出した。ただし明覚寺は「法人格を有しておらず法人税が免除されない宗教団体」として存続することを許されている。
信教の自由とよく似た自由として、「信仰を理由として法律的な義務を拒否する自由」というものが考えられる。
すべての場合において「信仰を理由として法律的な義務を拒否する自由」が認められるわけではない。
法律的な義務の実質的目的が信仰の抑制にあるのか、そうでないのか、それをまず判断する。前者なら「信仰を理由として法律的な義務を拒否する自由」が正当化される。後者である場合は、法律的な義務が実質的な公共的利益の実現にとって重要なものか、そうでないか、それを判断する。重要でないのならば「信仰を理由として法律的な義務を拒否する自由」が正当化される。
ゆえに「信仰を理由として法律的な義務を拒否する自由」が正当化されるかどうかは3つの場合に分けられる。
※この項は『日本国憲法論 法学叢書7 2011年4月20日初版(成文堂)佐藤幸治』227ページを参考として執筆した。同書の原文は次のようになっている。
第3に、信仰を理由に一般的法義務を拒否しうるかについて、Ⅰでみたように、これを一般的に承認することはできないが、その法義務の実質的目的が信仰の抑制にあると解されるような場合や、その法義務が実質的な公共的利益の実現にとって重要なものとはいえないような場合などには、そのような義務を拒否することが正当とされ、またはそのような義務を課すことそれ自体が違憲となる。
この項目の題名に合致すると、「信仰を理由として法律的な義務を拒否する自由」が正当化される。
米国の学校で州政府が学生に対し国旗に対する敬礼を強制したことがあった。「宗教的信念により国旗への敬礼ができない」という学生に対して行われた時は、信仰の抑制を目的とする法律的義務になるので、学生の拒否権が正当化され、州政府の強制が違憲となった。
この項目の題名に合致すると、「信仰を理由として法律的な義務を拒否する自由」が正当化される。
徴兵制に対して「軍隊に入って軍隊特有の任務を遂行するのは嫌だ」という思想・良心や信仰に従って兵役を拒否することを良心的兵役拒否という。
国際協調の時代となって戦争が極めて少なくなった場合、良心的兵役拒否が正当化されることがあり、政府によって容認されることがある。2011年までのドイツでは徴兵制が導入されていたが、良心的兵役拒否を容認することと良心的兵役拒否をするものに13ヶ月間の社会福祉活動を義務づけることが法律で定められていた[10]。
エホバの証人に入信している公立学校の学生が剣道の実技を拒否したところ、公立学校によって原級留置処分と退学処分を受けた。その取り消しを求めて争った裁判は第一審と第二審で判決が分かれて最高裁まで進んだ。最高裁は「上告人(学校)の採った措置が、信仰の自由や宗教的行為に対する制約を特に目的とするものではなく、教育内容の設定及びその履修に関する評価方法についての一般的な定めに従ったものである」としつつ「(原級留置処分や退学処分は)社会観念上著しく妥当を欠く処分をしたものと評するほかはなく、本件各処分は、裁量権の範囲を超える違法なものといわざるを得ない」と述べた。要するに、「剣道実技は信仰の抑制を目的とするものではないが、それを拒否したら原級留置処分や退学処分を課するに値するほどのことではなく、実質的な公共的利益の実現にとって重要ではない」と判断した。また生徒が剣道実技に代わるレポート提出等の措置を繰り返し求めていたことも考慮された。
この項目では「信仰を理由として法律的な義務を拒否する自由」が正当化されない場合を列挙する。
戦争が多い時代になると各国で徴兵制を導入することになる。そういう時代では、信仰に基づいて良心的兵役拒否をしようとしても政府によって容認されず、懲役刑などの刑罰を課されることが多い。
米国で商店に対し日曜日の閉店を命ずる日曜日閉店法が制定された。それに対して土曜日が宗教的な休日であるユダヤ教徒たちは、「ユダヤ教徒は土曜日と日曜日の2日が休日となり、それ以外の異教徒は日曜日だけが休日となるので、ユダヤ教徒にとって不利益となる」として裁判で争った。
「日曜日閉店法は、ユダヤ教徒に対する信仰の抑制が目的ではなく、ユダヤ教徒に対して土曜日を休日にすることをやめさせて日曜日を休日にすることを強要するのが目的ではない。日曜日閉店法は娯楽や静養の雰囲気を日曜日に与えようという世俗的な目的を持つもので、ユダヤ教徒に不利益が発生するとしても間接的なものに過ぎない」として合憲とされ、ユダヤ教徒が日曜日閉店法を拒否することは正当化されなかった。
奈良県は東大寺金堂や法隆寺西院を訪れる観光客に対して大人1人10円・子供1人5円の文化観光税を課した。東大寺は裁判を起こして「参拝という宗教的行為を規制するものなので信教の自由を侵害していて違憲である」と主張したが、奈良地方裁判所は「宗教的行為に課税するのは違憲だが、今回は文化財を観賞する行為に課税したに過ぎない」と述べ、合憲と判断した[12]。
京都市議会は1983年1月18日に古都保存協力税条例を可決したが、それに対する事前施行差し止めを求める裁判が起こされた。京都地方裁判所は「すなわち、本件条例は、文化財の観賞という行為の宗教的側面自体を否定するわけではなく、対価を支払ってする有償の文化財の観賞という行為の客観的、外形的測面に担税力を見出し、これに本税を課すこととしたまでである」「本件条例の施行によつて信教の自由を侵され、回復し難い重大な損害を被るおそれがあるとすることは無理である」と述べた[13]。
キリスト教の教会の日曜礼拝に参加するため、日曜日に行われる公立学校の授業参観を結成した親子に対し、公立学校が欠席と扱った。それに対し親が欠席処分の取り消しを求めた。裁判所は「したがって、公教育上の特別の必要性がある授業日の振替えの範囲内では、宗教教団の集会と抵触することになつたとしても、法はこれを合理的根拠に基づくやむをえない制約として容認しているものと解すべきである」と述べて欠席処分の取り消しの請求を棄却した[14]。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/09(火) 11:00
最終更新:2025/12/09(火) 11:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。