八卦掌とは、中国武術の一種。門派(流派)の名である。
東洋哲学の思想、易経の八卦に合致した体系をもった拳術である。
握拳よりも掌を多用するといわれている。その為この名がつけられている。歩法を重要視し走圏という練習法が特徴的である。歩く(走る)際、突然旋身して方向転換をしたり、舞うように動作する陸上遊泳ともたとえられる姿は美しく舞踊のようにも思えるが、数多の実戦名人を輩出した実戦での強さを誇った戦闘的な門派である。
最大の特徴として趟泥歩という歩法がまずあげられる。この名称は泥濘を歩き泥に足を取られないかのように気を配って歩くことをこう形容したらしい。歩き方のコツは平起平落といって通常歩行する際のように地面をつま先で蹴ってその勢いで体を送り出し踵から着地する、あるいはつま先から着地というように進むのではなく、なるべく足は真っすぐ引き上げ、真っすぐ落とし重心に気を配りながら歩むことである。これで直線上ないし円周上を歩いて歩行練習を行う。円周上をまわって歩く歩行練習を走圏という。
一般的なやり方では円周上を八歩進むと八歩目で換掌式を行い、これもまた八卦掌で特徴的な歩法である扣歩擺歩という動作で、方向転換し向きを変え、歩いていく方向を反対にして進む。そしてまた同じように進むと扣擺歩というように歩法を鍛えていく。初学では厳密な歩法を心がけ、ひたすら時計回り反時計回りとこの走圏を練っていく。また趟泥歩ではなく自然な足運びを強調する派もある。
八卦掌はまず歩き方を変えることによって体を変え効率的に動く術を身に着ける基礎とするのである。
八卦掌は戦うに際し円周をぐるぐる回るようなことなどしない。換手法など中国武術で常識的な技法を用い、穿掌という指先での点打・点撃で敵の拳の射程圏外から交叉攻撃する場合が多い。密着したならば敵のバランスを崩し、受け身がとれないように投げてしまい大地に叩きつけ、効果的に殺傷する戦闘法を得意とし、人体を破壊し尽くすような残酷な招法が常套手段となっている。多種多様な突き技、蹴り技もあり、膨大な技法体系を持つ門派でもあり、その実態の把握は難しい。なのでどれが真伝などという比較は無意味である。
八卦掌は清朝末期の北京に忽然と現れた武術家の董海川によって創始された門派である。
董は一説によると家は貧しかったが幼少の頃から武を好み神童とうたわれ、長ずるにおよんで各地の名師を訪ね、やがて安徽九華山にて道に迷い、「伝盤(雲盤老祖)」と名乗る道士に救われその武術を伝授される。さらに伝盤の師である鉄拐道人から羅漢拳を学んで3年間の後大成したという。下山に際し「河図洛書」、「範園図譜」という2巻の書を与えられ、その後10年をかけて易の八卦を8技法におきかえて八卦掌を創始し、さらに3年工夫をくわえて無敵の武術としたという。やがて董は紫禁城の叡王府で宦官として使え、その武術の腕を皇族に認められて粛王府で護衛総領となり、多くの皇族や重臣たちに武術を教授するようになった。董には形意拳の達人、郭雲深と互角に戦い勝負がつかず義兄弟の契りを結んだという伝説がある。董は1882年10月25日、享年85歳で端坐したまま逝った。
董海川の弟子は多く、八卦掌は様々な門派にわかれており伝承されている。
尹福の系統である尹派、程廷華の系統である程派の2派のものが特に有名である。
この他にも梁振蒲の梁派、尹福の弟子の馬貴の系統という馬貴派、程廷華の息子の長男である程有龍の弟子の孫錫堃の系統などの多数の門派がある。
董海川は門人の素質に合わせ教授内容を随時変化させたといわれ、さらに以降の伝人たちも変化を尊び各人の創意工夫を盛り込んでいったため、他門派と比べ著しく伝承に画一性が無いかのような姿となっている。一見、とても八卦掌に見えないようなものほど古い型で、いかにも八卦掌だというものは時代が新しいものと述べる武術家もいる。董海川の死後、弟子や孫弟子が集まり、それぞれの技を比較したことがあったが、各自のあまりの違いに絶句し、一部技法の標準化は行われたとは伝えられている。
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最終更新:2025/12/08(月) 06:00
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