八雲(装甲巡洋艦)とは、大日本帝國海軍の装甲巡洋艦である。
日露戦争前夜、ロシアとの戦争が秒読み段階に入っていた日本は、海軍力を強化しようと六六艦隊計画を策定。次々に諸外国へ軍艦を発注した。そのうちの1隻が八雲である。
1896年度計画で一等巡洋艦として発注が決定。翌1897年10月18日に軍艦八雲と命名され、ドイツのヴルガン社に建造を発注した。当時ドイツは仮想敵ロシアと同盟国の関係であったが、それほど強固なものではなかったので契約成立。シュティティン造船所にて1898年9月1日に起工した。建造費はイギリスより一割高かったと言われる。1899年7月8日に進水し、1900年6月20日に竣工。回航員によって日本本土に回航され、8月30日に到着した。唯一ドイツで建造された艦のため、同型艦は無し。
要目は排水量9735トン、全長124.7m、全幅19.6m、出力1万5500馬力、速力20ノット。武装として20cm二連装砲2基、15cm砲12門、魚雷発射管4門を備える。先述の通り建造費は割高だったが、性能と設計は日本側を満足させるものだった。装甲はやや薄かったが、最新型高性能機関を搭載した事により三笠を上回る出力を持ったパワフルな艦であった。戦列に伍した八雲は、日本の貴重な戦力になり一線で戦う事になる。
余談だが、1901年に島根婦人会よりクシナダヒメの神像が寄贈され、艦内に安置されている。
1903年4月10日、神戸沖で行われた大演習観艦式に参加。主力艦が列する第一列に並び、その威容を臣民に見せ付けた。
1904年2月8日、ついに日露戦争が勃発。八雲は第2艦隊第2戦隊の一員として参戦した。8月10日、黄海海戦に参加。旅順を出港してウラジオストクに向かったロシア艦隊を捕捉・殲滅し、日本の勝利に大きく貢献した。
1905年5月27日午前6時、遠路はるばる回航されてきたバルチック艦隊を撃滅すべく韓国南部を出撃。上村提督に率いられ、出雲、吾妻、浅間、常盤、磐手とともに一斉に火砲を放った。この時、連合艦隊は新型の高性能砲弾を使用。甲板に着弾した砲弾は高熱の炎を撒き散らし、敵水兵を焼却。バルチック艦隊は巨大な炎に包まれ、総司令官ロジェストヴェンスキーが重傷を負う。統率を失ったバルチック艦隊は散り散りになって敗走を始めた。その後、磐手とともにアドミラル・ウシャーコフを追撃し、これを撃沈。世界最強と謳われたバルチック艦隊は壊滅し、日本の勝利が決定的になった。
その後、第3艦隊の旗艦となり樺太占領の際に護衛を務めた。1905年10月23日、日露戦争凱旋観艦式が横浜沖で行われ、これに参加。奇跡の大勝利に酔いしれた。
1914年、日本は第一次世界大戦に参加。10月31日、ドイツの租借地である青島の攻略作戦に参戦。艦砲射撃で上陸部隊を支援した。その後、ドイツ東洋艦隊のエムデンを捜索したが、既に太平洋から脱出していたため戦闘は生起しなかった。その後、蘭印方面で通商保護を実施。主戦場から遠く離れていた事もあり、まともな戦闘は起きず。
1915年12月4日、横浜沖で挙行された御大礼特別観艦式に参加。第1艦隊第1水雷戦隊での参列となった。
1921年9月1日、一等海防艦に類別変更された。9月25日、練習艦隊旗艦の座を出雲から継承した。大型な船体である八雲は収容スペースに余裕があり、練習艦に最適だったのだ。
1922年8月26日、防護巡洋艦新高が座礁沈没。僚艦とともに救助活動を行い、8月29日正午までに6名の水兵の死体を収容した。その後、横須賀へ一旦帰投。防寒具、伝馬船、食糧品などの補給品と棺を満載して8月31日に出港。9月5日に遭難海域へ舞い戻った。
1923年9月1日、関東大震災が発生。この時、連合艦隊は旅順近海の裏長山泊地に停泊しており、八雲は練習艦隊として参加していた。帝都からの緊急電を受け、翌2日午後4時から次々に艦艇が救援に向かった。浅間、磐手とともに黒煙をモクモク吐き出しながら帝都を目指していたが、四国沖で全力航行中の長門に追い抜かれている。到着後、品川・清水間で被災者の輸送任務に従事した。
11月7日から翌1924年4月5日まで遠洋練習航海に参加。その後も候補生を乗せて航海を続けた。1927年4月1日夕刻、輸送任務の命令を受けて急ぎ館山沖から佐世保へ寄港。陸戦隊500名を乗せて翌2日に出港、上海へ緊急輸送を行った。上海では治安が悪化の一途を辿っていたのである。8月、上海にて運送艦鳴戸より補給を受ける。
1928年4月23日、出雲とともに横須賀を出港。2万1018海里を踏破し、香港、シンガポール、バタビア、フリーマントル、アデレード、メルボルン、シドニー、ホバート、ウェリントン、オークランド、フィジー諸島スヴァなど途中20ヶ所の寄港先に立ち寄りながら10月3日に横須賀へ帰着。そのまま12月4日の御大礼特別観艦式に参列した。ちなみに八雲が観艦式に参列するのはこれが最後である。
1931年3月16日、訓練生を乗せて出雲とともに佐世保を出港。馬公、基隆、香港、スエズ、ポートサイド、ナポリ、マルセイユに寄港し、8月15日に佐世保へ帰投した。その間の6月1日、艦種を海防艦に変更。翌1932年8月1日に練習艦隊へ編入された。1935年2月20日、磐手とともに横須賀を出発し、練習航海しつつ太平洋沿岸諸国を歴訪。7月22日に横須賀へ帰還した。
1936年4月20日、練習艦隊旗艦の座を磐手に譲った。6月9日、練習艦隊の一員として遠洋航海に出発。横須賀を出て、8月5日にパナマ運河を通過。ニューヨークに寄港し、日本へと向かった。その道中の11月6日、サイパン南155海里において、船体右舷前部の二重底部に滞留していたガスが引火爆発を起こし、4名が死亡する事故が発生。余波で浸水が発生し、急遽磐手に曳航してもらっている。横須賀から修理要員と資材を積んだ駆逐艦狭霧か急行し、11月8日に会合。翌9日、サイパンに入港して応急修理を行った。11日後、サイパンを出港し、11月20日に横須賀へ到着。散々な航海になった。
負傷しても練習艦の役割が途絶えるはずがなく、1937年3月23日に卒業した64期生を乗せて出発。相棒の磐手と内地、朝鮮、満州を3ヶ月巡航。6月7日に横須賀を発ち、地中海方面へと向かったが、8月8日に第二次上海事変が発生。緊迫した情勢になったため、予定を二週間繰り上げて横須賀に帰港した。
1917年から1939年にかけて実に14回もの練習航海に使われ、海兵44期から66期の大多数が八雲に乗艦して知識や技術を学んだ。近代における帝國海軍の礎を作った慈母と言えよう。1939年以降は香取型練習巡洋艦が登場した事で、お役目御免となった。
1941年12月8日、大東亜戦争が勃発。開戦時、八雲は江田島に係留されていた。
1942年7月1日、一等巡洋艦に復帰。同期の装甲巡洋艦が練習艦へと格下げになる中、八雲は価値を維持し続けていた。ただ一等巡洋艦とはいえ既に竣工から約40年が経過した超老朽艦であり、最前線に彼女の出番は無かった。兵学校の練習艦に指定され、瀬戸内海西部で実習の場を提供するのみに留まった。1943年10月13日、同じ練習艦だった山城、伊勢、龍田がトラック島への輸送任務に抽出される中、八雲だけ声が掛からなかった。
八雲では、ガリ版の艦内新聞「行脚(ゆきあし)」が出版されていた。旧式艦ゆえ空調設備の類は一切無く、直射日光が当たると熱せられて非常に暑かった。石炭を使う蒸気機関なので機関科の訓練には適さず、彼らの姿は無かった。1945年4月、主砲を撤去し対空砲を装備。武装は15cm単装砲4門、12.7cm高角砲2門、8cm単装高角砲1門、25mm三連装機銃2門、同連装機銃2門、同単装機銃2門になった。整備状況が悪かったらしく、9ノットしか出せなかったと伝わる。戦争末期には深刻な重油不足に陥り、多くの艦艇が行動不能になる中、八雲は石炭で駆動するため大変重宝されたという。
日本本土は激しい爆撃を受け、同期の装甲巡洋艦が次々に大破着底ないし沈没したが、唯一八雲だけは無傷で生き延びた。何か憑いているのかもしれない。
終戦時、航行可能な状態で残存。日露戦争時代の骨董品が未だ現役なのを見て、アメリカ軍は興味を抱いたとか。八雲は復員船に使用され、1945年10月1日に除籍。12月1日より特別輸送艦となったが、航続距離の短さから台湾と中国本土が担当地区になった。1946年6月26日に任務を終え、7月20日に日立舞鶴造船所で解体工事に着手。1947年4月1日に解体が完了し、45年以上に及ぶ艦歴を閉じた。艦長室にあったドイツ製の調度品は中国に返還するため、鹵獲艦阿多田に積載された。日立舞鶴造船所には錨や艦長机が展示されている。
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最終更新:2025/12/09(火) 23:00
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