北アフリカ戦線 単語


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キタアフリカセンセン

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北アフリカ戦線とは、第二次世界大戦中の1940年9月13日から1943年5月13日まで続いた、北アフリカ沿岸における枢軸軍対連合軍の戦闘の総称である。

概要

背景

北アフリカは砂漠に覆われた不毛の土地であった。だが東端にはイギリス軍が擁するアレキサンドリア基地、スエズ運河、産油国のサウジアラビアが存在しており、ここを叩く事が出来れば欧州とインド洋の交通路を遮断してイギリスに痛撃を与える事が出来た。ドイツ政府は来るべきイギリス本土攻撃に備え、同盟国イタリアに英北アフリカ駐留軍への攻撃を要請。ちょうどイタリアも北アフリカに版図を広げたい思惑があったので、この要請を快諾。1940年9月7日、イタリア領リビアから侵攻を開始した。

よわいイタリア軍

イタリア軍は8万の兵力からなる第10軍を投入。9月10日にエジプトへ突入した。当初はイギリス軍が後退していた事もあり、順調に進撃。シディ・バラニの街を占領するに至った。しかし性急過ぎる進撃は補給線に支障を与え、さらに潤沢な補給を受けたイギリス軍の反撃に遭って進撃が停止する。12月9日、インド軍の増援を得たイギリス軍はコンパス作戦を開始し、イタリア軍への反攻を始める。完全に機械化され、かつ数も多いイギリス軍にイタリア軍は歯が立たず、シディ・バラニの駐留部隊が壊滅。加えて後方のバルディアを守備していた残存部隊もイギリス軍の猛攻を受け、1941年1月6日に降伏した。

勢いに乗るイギリス軍は戦線を押し返し、イタリア領リビアへと逆に侵攻。イタリア第10軍は遅延戦闘をしながら後退していたが、イギリス軍の機械化部隊に背後を取られて退路を断たれる。進退窮まった第10軍は2月7日に包囲網突破を試みたが、敗北して壊滅。捕虜13万人を出してしまった。障害を排したイギリス軍はリビアの占領を進め、要港トブルク、バルディア、キレナイカ地方を次々に占領。西部の街トリポリタニアにもイギリス軍の魔手が迫り、イタリアの移住民たちはパニックに陥った。イタリア本国から増援を送ろうにも、イタリアと北アフリカの間にはイギリス軍の要塞マルタ島があって上手く行かない。

リビアの支配権すら危うくなったイタリア軍は、ドイツに泣きついた。そしてドイツから送られてきたのは、勇将として名高いあの男だった。

エルヴィン・ロンメル、北アフリカに降り立つ

1941年2月12日、トリポリタニアに1機のハインケルHe111爆撃機が降り立った。彼こそフランスを殴り倒した勇将エルヴィン・ロンメル中将であった。彼は一刻も早く攻勢に出たかったが、配下の機甲師団が到着するまで攻撃を禁じるとヒトラー総統とブラウヒッチュ元帥から命じられていたため辛抱強く待った。既にイギリス軍はトリポリタニアの奥深くに偵察部隊を送り込んできている。猶予は残されていない。またベダフォムでイタリア軍が壊滅的打撃を受け、総崩れ寸前の状態だった。だがドイツアフリカ軍団の輸送は遅々として進まなかった。戦車は僅か150輌しかなく、優勢なイギリス軍を迎え撃つには不足だった。

そんな中、無線の傍受やイギリス軍機の不活発ぶりを見たロンメルは大胆にも攻勢を命じた。3月31日、ドイツ軍はメルサブレカを攻撃。北アフリカの地で初めてドイツ軍とイギリス軍が干戈を交えた。攻撃を受けたイギリス軍は戦車の増派を要求したが、第2機甲師団長ガンビヤ・パリー少将が増援を出し渋ったため撤退を強いられた。4月2日、ドイツ軍はアジェタビアに到達した。ここでロンメルはイタリア軍を呼び寄せ、占領地の確保に充てると同時に一部をアフリカ軍団に編入した。進撃する機甲師団の後ろから追従する補給部隊も編成し、後顧の憂いを断ったドイツ軍は三方向に分かれて進軍を再開した。4月4日、補給港ベンガジに到達し、英第2機甲師団と激突。ここでアフリカ軍団は大勝利を収め、ベンガジと後方のメキリを占領。大多数のイギリス兵、オーストラリア兵、インド兵を捕虜とした。中には北アフリカ軍司令オコナー中将と第2機甲師団長パリー少将も含まれていた。

ロンメルはとにかく前進を命じた。部下に前進を強行させ、友軍からの反対意見も取り合わなかった。無茶な前進を知ったイタリア軍総司令官ガリボルジがアジェタビアにすっ飛んできたが、それさえもロンメルは取り合わなかった。イギリス軍は今、アフリカ軍団の反撃で指揮系統が混乱している。この隙を突かなければ永遠に勝機が失われてしまうとロンメルは確信していた。ドイツ軍統帥部もその事を熟知しており、ロンメルに「自由に行動しても良い」と指示を出して、周囲の反対意見を黙らせた。厳しい命令ばかり出すロンメルに将兵は小言をブツブツ言いながらも、無茶な前進を実現するために奔走した。アフリカ軍団は疲弊していたが、前進命令は止まらなかった。

ドイツアフリカ軍団の次の狙いは補給港トブルクであった。ここはオーストラリア軍が守備しており、堅牢な陣地の中には水も食糧も十分にあった。4月9日より急襲が始まったが、ドイツ空軍の支援攻撃は高射砲に阻まれ、キレナイカとエジプト国境にイギリス軍の増援が出現するなど連合軍は息を吹き返し始めていた。ここで無理を重ねてきたアフリカ軍団にしわ寄せが来た。兵の疲労は勿論のこと、砂塵にやられて戦車の稼働率も下がり続けていた。ナポリを出発した輸送船団も元気なイギリス海軍に次々と襲われており、補給の問題も立ちはだかった。結果、トブルク攻略に失敗した。ドイツアフリカ軍団初の敗北である。4月29日に再度の攻撃に出るも、失敗。両軍とも限界が来たため、体勢を立て直すべく戦線が膠着した。

イギリス軍にとってロンメルはまさに死神であった。何としても彼を排除したいイギリス軍は、クルセーダー作戦を開始。コマンド部隊を送り込んでロンメルの暗殺を図った。11月14日、潜水艦でコマンド部隊が上陸。17日夜にベダリットリアにあるドイツ軍司令部を襲撃した。しかし作戦は不成功だった。ちょうどロンメルは作戦会議のためローマに出向いていたからである。ロンメルを倒し損ねたイギリス軍は手痛い犠牲を払う羽目になった。11月21日、イギリス第8軍はアフリカ軍団の猛攻を受けて壊走。敵将カニンガムは戦意を喪失し、更迭された。また英第30軍団も退却していった。

しかしドイツアフリカ軍団の攻勢はここで限界を迎えた。加えてキレナイカ方面に集結していたイギリス軍が大挙して襲来したため、急遽ハルファヤ峠を拠点に防戦しなくてはならなくなった。ロンメルは一度西への退却を命じ、トブルクは攻囲に留めた。

流動する戦況

1942年1月5日、ドイツの船団がトリポリに到着。ドイツ軍の戦車は84輌に、イタリア軍は89輌になった。燃料と弾薬も補給され、300機以上の独伊軍機が作戦行動可能となる。これを機にドイツアフリカ軍団は1月20日夜より攻勢に出た。22日には英第1機甲師団に壊滅的打撃を与えて、再興を示した。進撃は続き、ベンガジを奪取。この戦果により、ロンメルは上級大将に昇進した。この頃、地球の裏側では真珠湾攻撃が実施され、アメリカが参戦。北アフリカにもアメリカ軍が出現するようになった。補給面でもイギリス軍の方が日に日に良くなっていった。エジプトからベルハムドまで伸びる鉄道を建設し、海路に頼らずとも兵力や物資の輸送を可能とした。さらに自由フランスから派遣された旅団も加わり、連合軍は莫大な戦力と弾薬を抱えていた。イギリス軍は攻勢を視野に入れ、補給基地を前線の近くに配置した。

5月26日21時、アフリカ軍団は膠着した戦況を打ち破るべく前進を開始。分散配置されていた英第3自動車化旅団と第4戦車旅団を粉砕。戦車の半数以上を失って後退を余儀なくされた。一方のイタリア軍トリエステ自動車化師団は砂地にはまって動けなくなり、自由フランス軍への攻撃に失敗していた。遁走するイギリス軍の背後にアフリカ軍団が回りこみ、これを撃滅。戦車30輌を撃破し、師団長や幕僚たちを捕縛した。だが間もなくイギリス軍は大戦力を投じて猛然と反攻を開始。補給路を断ち、ロンメル率いるアフリカ軍団を包囲する。敵戦力には初めて見るアメリカ軍のグラント戦車もあり、ドイツ兵を驚かせた。連合軍の包囲網は厚く、5月31日にロンメルは英軍捕虜に対し「今晩、補給隊が到着しなければ英軍に降伏を求めなければならない」と漏らしていた。だが幸運の女神はロンメルに微笑んだ。アフリカ軍団とトリエステ自動車化旅団の攻撃が成功し、包囲網を形成する英軍を撃破できたのである。何とかロンメルは虎口を脱した。ここで後退を命じるかと思いきや、ロンメルはいつもの「前進」を命令。向かってくる英戦車部隊を粉砕しながら地雷原を突破。イギリス軍第8軍を指揮するリッチ将軍を驚愕させた。

6月11日、ロンメル軍団は総攻撃を開始。エルアデム付近の戦闘でイギリス軍を散々に打ち破った。空の戦いでもイギリス軍は敗北し、ドイツの爆撃機が平然と英軍陣地や戦車を爆撃。13日昼までに138輌以上の戦車を破壊され、トブルクへと撤退した。ロンメル軍団は6月15日に追撃を開始し、道中のイギリス軍陣地を潰しながらトブルクに進撃。軽快な機甲師団がバルジアを占領し、イギリス軍の増援と補給を断った。そして6月20日にトブルクへの攻撃を開始し、占領に成功。英軍守備隊は脱出に失敗し、22日朝に全軍が武器を捨てて投降した。トブルクには水、食糧、車両、嗜好品、燃料が燃やされずに残っており、枢軸軍の生命線となった。この戦果でロンメルは元帥に昇進したが、元帥杖より一個師団を求めたという。イギリス軍は後退に後退を重ね、ついに戦争が始まった時の位置にまで戻ってきてしまった。英中東方面軍総司令官オーキンレックはマルサマトルを最終防衛ラインに定め、アフリカ軍団を待ち受けた。ついでに失態続きのリッチ将軍は罷免された。

6月26日、ロンメル軍団は補給港マルサマトルを攻撃。ここはニュージーランド師団やイギリス第10軍が守備しており、退路を断ってマルサマトルを締め上げていたが、連合軍は頑強だった。ドイツ軍の攻撃を跳ね返し、辛抱強く増援を待ち続けた。ところが増援の英第1機甲師団のコッド師団長が後退を命じてしまい、マルサマトルは孤立無援と化す。耐えられなくなった連合軍は闇夜に紛れて脱出。機械化されていたので、ロンメル軍団が気付いた頃には遠くに逃げ去っていた。29日早朝、砦の中に残された山のような軍需品を獲得。ロンメルを喜ばせた。こうしてエジプト西方の補給港はロンメル軍団の手に落ち、イギリス兵6000名が捕虜になった。ロンメル軍団は進撃を再開し、エジプトの奥深くへと切り込んでいく。あまりの速さにドイツ空軍の進出が間に合わず、補給も届かないので、ドイツアフリカ軍団はイギリスが置いていった車両に乗って進軍した。敵味方ともに英国製の車両を使っている珍妙な光景だった。兵器もまた独伊製の物は少なく、大半が英軍製を鹵獲したものだった。軍服もイギリス軍のものである。

ターニングポイント

6月30日朝、アフリカ軍団はエル・アラメインの英軍陣地前面に現われた。オーキンレック総司令官率いる部隊がエル・アラメインを守備しており、さっそく激戦が開始された。アフリカ軍団は次々に陣地を突破していくが、縦深陣地を築いているイギリス軍には痛撃となりえない。浴びせられる砲火は激しく、7月2日の時点で一旦エル・アラメインの突破を諦めなければならなかった。翌3日に再度攻撃を命じたが、潤沢な増援を受けたイギリス軍陣地はより一層強化されており、不成功に終わった。敵の強力な陣地と火力の前では、いたずらに兵力を消費するだけである。ロンメルは後退を命じ、兵の休息を図った。

これを好機と見たイギリス軍は追撃を行い、アフリカ軍団へ殴りかかった。88mm砲でどうにか食い止めたが、ロンメル軍団の進撃はアレキサンドリアまで僅か200kmの所で止められてしまった。オーキンレック総司令官は7月10日より反攻を命じ、連合軍の逆襲が始まった。まず北の海岸線を守っているイタリア軍サブラタ歩兵師団に矛先が向けられ、これを撃破。逃げるイタリア軍を追いかける形でイギリス軍が突撃してくる。オーキンレックは弱いイタリア軍を攻撃目標に定め、ドイツアフリカ軍団を無視して集中攻撃を加えた。

連合国はエル・アラメインでドイツの猛攻を跳ね返し、トーチ作戦を発動した。東にイギリス軍、西に参戦したアメリカ軍がアルジェリアに上陸。連合国は苦戦しながらもアフリカから枢軸国を駆逐し、欧州に放逐したのだった。

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関連項目

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