「北条幻庵」(ほうじょう・げんあん 1493 ~ 1589)とは、戦国三大梟雄の一人・北条早雲の末子にして、97歳と言う長命を誇って後北条家五代に仕えた戦国一多趣味な最長老。
名は「北条長綱」とも。
※誕生日については異説があるがそれでも没年齢は80台後半である。
北条早雲が伊豆を手中にした翌々年に末子として生まれる。※兄は北条氏綱・北条氏時・葛山氏広
「子供を一人僧籍にいれておくと地獄に落ちない」と言う斎藤道三も習った戦国時代の風習もあって若い頃より箱根権現時に入門し、僧籍に入ったまま父・北条早雲が没した際に与えられた4465貫と言う一族中最大の知行の所領を経営した。
父の後を継いだ兄で影が薄い事に定評のある北条氏綱が没すると、その後を継いだ甥の北条氏康の後見人となり、北条氏政、北条氏直と後北条家五代に仕えて後北条氏100年の歴史のほとんどを共に歩み、その死の半年後に豊臣秀吉による小田原攻めが始まり、その半年後には小田原城が落城して後北条氏五代は滅亡した。
※長男は夭折し、武田信玄との戦いで残った息子達二人(北条綱重・北条長順)が戦死しており、北条氏康の子・北条氏秀を養子にしていたが、北条氏秀が同盟の為に上杉謙信の養子となって名を上杉景虎と改めた為、孫の北条氏隆に後を継がせたが、北条氏隆は北条氏滅亡の後、最後の当主・北条氏直と共に高野山に入った。
※その他「北条幻庵」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
若い頃から僧籍に入っていたことや、京都では作法伝奏を生業とした伊勢家の者として古典や礼法に詳しく、和歌・連歌・茶道・庭園等になどに通じた教養人であったが、馬術が得意で手先が器用な事もあってか鞍作りも趣味としており、名人「鞍打幻庵」とも呼ばれ、他には一面鼓や尺八等の音曲にも才能を発揮したと言われている。
※庭園造りの才能は、後北条氏の菩提寺である早雲寺の庭にて現在でも垣間見る事が出来る。
北条氏康の娘が吉良氏朝に嫁ぐ際に、輿入れ時の礼儀作法についての心得を記した「幻庵おほへ書(幻庵覚書)」を持たせる等、多芸多才な教育者であった事が解る。
長老と言うキーワードや多趣味な点から北条幻庵は内政・教養担当と思われる事が多いが(コーエーとかコーエーとかコーエーとか)、功績はあるのに父親と息子に美味しいところを持っていかれている兄・北条氏綱の頃には、武蔵で苦戦する兄を応援する為に度々出陣している、
また、関東管領上杉憲政が北条氏によって越後の長尾景虎を頼る事になり、関東管領・上杉謙信として侵攻してきた際に、最初に戦ったのは北条幻庵であり、弓矢をとっては無双の達人と言われ、馬術にも秀でていたとされており、実は文武両道の武将だったりする。
※「信長の野望」を使用した架空戦記ではおっぱい星人なエロジジイ役が多い。
▼戦国時代の最長老として登場
▼どうみても父親(北条早雲)よりジジイな北条幻庵が登場するiM@S架空戦記「頑張れ氏康くん」
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
| 武将風雲録(S1) | 戦闘 | 10 | 政治 | 55 | 魅力 | 82 | 野望 | 27 | 教養 | 87 | ||||
| 覇王伝 | 采配 | 72 | 戦闘 | 53 | 智謀 | 57 | 政治 | 70 | 野望 | 17 | ||||
| 天翔記 | 戦才 | 86(C) | 智才 | 124(C) | 政才 | 152(A) | 魅力 | 78 | 野望 | 32 | ||||
| 将星録 | 戦闘 | 29 | 智謀 | 71 | 政治 | 81 | ||||||||
| 烈風伝 | 采配 | 23 | 戦闘 | 8 | 智謀 | 62 | 政治 | 76 | ||||||
| 嵐世記 | 采配 | 26 | 智謀 | 62 | 政治 | 82 | 野望 | 31 | ||||||
| 蒼天録 | 統率 | 21 | 知略 | 69 | 政治 | 74 | ||||||||
| 天下創世 | 統率 | 21 | 知略 | 69 | 政治 | 75 | 教養 | 79 | ||||||
| 革新 | 統率 | 24 | 武勇 | 2 | 知略 | 77 | 政治 | 84 | ||||||
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最終更新:2025/12/07(日) 23:00
最終更新:2025/12/07(日) 22:00
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