千振(海防艦) 単語

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千振(海防艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した御蔵型海防艦7番艦である。1944年4月3日竣工。米潜水艦グロウラーを僚艦と協同撃沈した戦果を持つ。1945年1月12日、インドシナ沖で航空攻撃を受けて沈没。

概要

前級択捉型の設計に改良と対潜能力強化を施し、より汎用性を高めたのが本級の御蔵型となる。主砲を平射砲から高角砲に換装、爆雷搭載数も36個から120個に増やし、九三式水中聴音機と九三式水中探信儀を新たに搭載、加えて単艦式掃海具も艦尾両舷に1基ずつ装備している。択捉型より対潜装備が強化された事は一定の評価を得たが、1隻建造するのに約9ヶ月を要する量産性の低さが問題視され、次級の日振型や鵜来型では更に簡略化が進められた。

要目は排水量940トン、全長77.5m、最大幅9.1m、機関出力4200馬力、最大速力19.5ノット、燃料搭載量120トン、乗員150名。兵装は45口径12cm単装高角砲E型改一1門、同連装高角砲A型改三1基、三式8cm対潜迫撃砲1門、25mm連装機銃2基、九四式爆雷投射機2基、爆雷投下軌条2条、九五式爆雷120個、掃海具、6メートルカッター2隻、6メートル内火艇1隻。電測装備は22号水上電探、九三式水中聴音機、九三式水中探信儀。

艦歴

起工から竣工まで

開戦前の1941年8月15日より発動されたマル急計画において建造が決定。建造費511万2000円が捻出される。この時は択捉型として建造される予定だったが、未起工で設計変更が間に合った16隻を御蔵型に変更。

1943年7月20日、第329号艦の仮称を与えられて日本鋼管鶴見造船所で起工。8月31日に千振と命名され、艦種を海防艦に、艦型を御蔵型に定められる。11月30日に進水式を迎え、1944年1月20日に艤装員事務所を鶴見造船所内に設置して事務を開始、1月30日に艤装員長として石山泰三大尉が着任する。そして4月3日に竣工を果たした。艤装員事務所を撤去するとともに石山大尉が艦長に就任。横須賀鎮守府へ編入され、海防艦の訓練を担当する呉鎮守府部隊呉防備戦隊に部署する。

1944年5月1日、艦長の石山大尉が少佐に昇進。5月14日には海上護衛総司令部第1海上護衛隊へ転属し、出撃に向けて呉工廠で重油タンク及びバラストタンクの漏洩、烹炊用気畜器の亀裂を修理する。5月24日に第19号海防艦とともに呉を出港し、翌日船団の集結地となっている門司港へ到着。

1回目の船団護衛

5月29日午前6時、商船改造空母神鷹、練習巡洋艦香椎、海防艦淡路、第11号、第19号、第60号駆潜艇とともに輸送船5隻からなるヒ65船団を護衛して門司を出発。東南アジアにおける物資集積地シンガポールを目指す。水雷艇燕に護衛された後発のグループも門司を出発してヒ65船団に加わった。

ところが6月2日午前2時45分、バシー海峡にて米潜水艦ギターロが6本の魚雷を発射。伸びて来る雷跡を発見した姉妹艦淡路が船団旗艦の香椎に通報するも、直後に魚雷の射線へ入り込んで被雷・轟沈、淡路の沈没はヒ65船団を恐慌状態に陥れ、四方八方へ逃げ出す。その中で千振と第19号が生存者の救助活動を行い、第19号が5名、千振が数名を救助する事に成功(戦傷が原因で後から死者が出ている)。また雷撃による混乱で有馬山丸と神州丸が衝突。搭載の爆雷が起爆して神州丸が航行不能に陥ったため香椎が基隆まで曳航する事になり、淡路の救難作業で船団から遅れていた千振と第19号が2隻を護衛した。6月3日正午、台湾北東部の基隆へ入港。同日中に基隆を出発して20時に南東部の高雄へ到着する。

6月5日20時、護衛空母海鷹と給油タンカー仁栄丸を新たに加えたヒ65船団を護衛して高雄を出発。6月8日午前9時6分、インドシナ沖を航行中に米潜水艦ガンネルに発見されるも、SJレーダーが34海里先に航空機を捕捉した事で潜航退避、次に浮上した時には船団の姿が消えていて攻撃チャンスを失った。そして6月12日13時50分、目的地のシンガポールに到着して護衛任務を完了させた。

6月17日午前4時、千振、香椎、第7号、第11号海防艦とともにヒ66船団を護衛してシンガポールを出発。敵潜水艦が待ち伏せしやすい深海を可能な限り避け、浅瀬が多いインドシナ沿岸に沿って北上。帰路は米潜の襲撃を受けず6月26日13時に船団は門司へと到着して護衛を終了。

翌27日13時、日立造船因島造船所に入渠して第10番重油タンク外鈑修理と主機械ピストン抜出検査を実施。続いて呉工廠で7月1日から9日まで船体や機関の修理を受けた。7月10日、第1海防隊へ異動。7月11日に呉を出港して門司に回航する。

2回目の船団護衛

7月13日16時、神鷹、香椎、海防艦佐渡、第7号、第17号とともにヒ69船団を護衛して六連を出港。船団には大鷹や海鷹も加わっていたが、この2隻はマニラ向けの航空機を積載した輸送艦扱いのため、対潜哨戒機を持っているのは神鷹だけだった。7月17日19時45分、高雄外港の左栄泊地で一旦停泊し、翌18日午前2時45分に出発。

ところが間もなくロック、タイルフィッシュ、ソーフィッシュからなるウルフパックに捕捉されてしまう。午前6時頃、高雄近海で米潜水艦ロックがはりま丸を狙って魚雷4本を発射、このうち1本がはりま丸の船体に命中するが不発で終わって損害軽微。次にソーフィッシュがヒ69船団に9本の魚雷を発射。再び1本がはりま丸に命中するも依然航行可能な状態であった。午前10時55分、今度はタイルフィッシュから雷撃を受けて対潜掃討中の第17号海防艦が大破。損傷を負った第17号と播磨丸を高雄へ向かわせた。7月20日21時にマニラへ寄港。ここで船団の再編制が行われ、大鷹はヒ68船団に加わって内地帰投、海鷹はマモ船団護衛のためマニラで留まる事になり、ヒ69船団には新たに第13号と第19号海防艦が護衛に加入する。

7月25日午前5時30分、ヒ69船団とともにマニラを出港。神鷹の九七式艦攻1機が海面に不時着水して失われる事故があったものの、それで憑き物が落ちたのか敵襲を受ける事無く、7月31日17時36分に無事シンガポールへ入港。現地で内地帰投を命じられている駆逐艦霜月と海防艦満珠が護衛に加わった。

8月4日21時、神鷹、香椎、霜月、佐渡、満珠、第13号、第19号とヒ70船団(加入船舶8隻)を護衛してシンガポール出港。道中でマニラから出発してきた中破状態の軽巡北上を船団に加える。8月12日午前8時、探知した敵潜水艦を攻撃するため佐渡と第13号が切り離され、神鷹の九七式艦攻とともに対潜攻撃を行って撃沈を報じた(該当艦無し)。その後、佐渡は対潜掃討を行いながら単独で基隆に向かった。8月15日14時30分、ヒ70船団は門司へ到着して護衛任務完了。翌16日早朝に門司を出発した千振は佐世保へ回航して入渠。重油タンク鋲打換修理や主機械ピストン抜出検査を行うとともに、十二糎双眼望遠鏡の搭載工事を実施した。

8月23日午前9時、第19号海防艦とともに佐世保を出港し、同日18時に福岡県大牟田市三池港へ回航する。続いて8月24日午前7時に三池港を出発して翌午前5時に門司へ移動。現地でヒ73船団と合流した。

3回目の船団護衛

8月25日午前6時30分、護衛空母雲鷹、練習巡洋艦香椎、海防艦5隻(千振、第3号、第19号、第21号、第27号)が護衛するヒ73船団と門司を出港。翌26日に第1号と第13号海防艦が護衛に加わるが、萬栄丸がエンジントラブルを訴えたため第1号と第3号を伴って佐世保へ後退。瑞穂丸、あらびあ丸、黒龍丸の3隻は異常に黒煙の量が多く、敵に発見されやすい状態だったため反転帰投を命じられた。8月28日午前11時40分、千振は九七式艦攻や第27号とともに敵潜を攻撃する。8月29日16時から20時30分にかけて高雄近郊の左栄泊地で仮泊。

8月31日14時35分、九三式中型練習機が敵潜を発見して目印の発煙弾2発を投下。次に雲鷹所属の九七艦攻、千振、第21号を現場まで誘導して15時30分より一斉に爆雷を投じた。9月1日午前8時49分、第21掃海隊(第38号、第39号掃海艇)、海防艦屋代、水雷艇鳩、隼が合流し、マニラ行きの吉備津丸、護国丸、香久丸、伊良湖を連れて船団より離脱。その後も度々敵潜が探知されているが、9月3日20時23分に東亜丸が触雷損傷した以外は特に大きな問題は起きず、9月5日午前9時54分、船団はシンガポールへと無事到着。

9月11日午前11時、雲鷹、香椎、千振、第13号、第19号、第21号海防艦はヒ74船団を護衛してシンガポールを出港。しかし此度の航海は多大な困難が待ち受けているのだった。翌12日午後12時45分、雲鷹所属機が海面に広がる油膜を発見し、第13号、第27号、九七式艦攻が攻撃を加える。9月16日22時31分、米潜クイーンフィッシュの雷撃により御室山丸が被雷。異常を悟った香椎から潜水艦襲撃を意味する赤色照明弾が打ち上げられた。だが被害の拡大は止められず、23時34分にバーブからの雷撃で1TL型タンカーあづさ丸と雲鷹が一挙に被雷、燃料を満載していたあづさ丸は一瞬で爆沈し、雲鷹もまた船団より落伍してしまう。翌17日午前7時55分、修理用を含む48機の航空機を抱えたまま雲鷹は右舷側へ転覆して沈没。千振や第27号の尽力により士官55名と水兵706名が救助された。9月18日18時、船団は高雄へ寄港して短期間停泊する。9月19日正午に高雄を出発。9月21日、爆撃を受けたヒ72船団救援のため第21号が分派され、後にヒ74船団との合流を果たした。

9月23日17時に船団を六連まで護送した後、すぐさま千振は出発して翌24日に佐世保へと入港。9月29日まで入渠整備を受ける。9月30日午前5時に佐世保を出港し、19時30分に門司へ到着。

4回目の船団護衛

10月1日午前8時、ヒ77船団を護衛して門司を出港し、奄美大島の有川湾で仮泊。翌2日午前7時に有川湾を出発してシンガポールを目指す。加入船舶が12隻なのに対し、護衛兵力は千振を含む海防艦4隻のみと非常に心細い陣容であった。台湾を目前に控えた10月5日、鴨緑丸が基隆へ向かうため船団より離脱、残りは同日中に高雄へ寄港。現地で海防艦択捉や昭南と合流したのちすぐさま高雄を出発する。

10月6日14時10分、米潜ホエールはヒ77船団に向けて魚雷5本を発射し、あかね丸が被雷が撃沈される。第21号海防艦があかね丸の生存者を救助し、下手人のホエールを捜索する中、17時57分に今度はシーホースが魚雷6本を扇状に発射。そのうち1本が第21号に命中して艦体を真っ二つに折って沈没。あかね丸の生存者を含む170名全員が戦死した。翌7日19時、マニラ西方でウルフパック「ホルツ・キャッツ」に所属するベクーナがヒ77船団をレーダーで捕捉し、僚艦のバヤとホークビルを呼び寄せる。数分後、ホークビルがヒ77船団を目視で発見。21時49分、大型貨物船に向けて魚雷6本を発射するが全て外れて難を逃れる。雷跡を確認した萬寿丸がホークビルに突撃して爆雷を投下。しかし、萬寿丸の勇敢な行動にも関わらずホークビルは22時の雷撃で衣笠丸に魚雷を命中させ、総員退船命令が出される。萬寿丸の更なる爆雷投下も実を結ばず、22時24分にホークビルは3本の魚雷を発射し、このうち2本が衣笠丸に命中して弾薬に誘爆。白と黄色の爆炎が数百メートル上空にまで立ち昇った。

多くのものを失いながらもヒ77船団は10月12日15時にシンガポールへ入港した。

東南アジア方面での活動

捷一号作戦を目前に控えた10月17日、千振、機雷敷設艇由利島、第19号、第27号海防艦、第34号掃海艇、タンカー厳島丸は栗田健男中将率いる第1遊撃部隊の第1補給部隊に編入。深刻なタンカー不足に悩まされていた栗田中将は千振、第19号、厳島丸、萬栄丸にボルネオ島ブルネイへ進出するよう命令。

10月19日にシンガポールを出港し、10月22日にブルネイへ到着。しかし捷一号作戦には間に合わなかったようで栗田艦隊は既にブルネイを出撃した後だった(燃料補給は雄鳳丸と八紘丸から受けた)。10月24日、志摩艦隊への燃料補給のため第17号、第19号、第27号とともに給油タンカー日本丸を護衛してブルネイ出発。総力を挙げたレイテ沖海戦が終わった後、ブルネイへの帰投を命じられた厳島丸、日本丸を第27号と千振が護衛する。10月27日午前2時48分、パラワン海峡西方にて水上航行していた米潜水艦バーゴールにレーダー探知され、午前3時36分に魚雷6本を発射。瞬く間に厳島丸と日本丸が被雷してしまう。まず午前5時10分に1万3000トンの燃料を抱えた日本丸が沈没。厳島丸は大破航行不能に陥ってボルネオ近海で漂流するが、幸運にも潜水艦が活動出来ない浅瀬だったため、バーゴールはこれ以上の追撃を断念。その間に千振と第27号が爆雷14発を投下してバーゴールを追い払い、厳島丸は千振に曳航されてブルネイへ帰投した。

10月31日午前6時30分、萬栄丸、雄鳳丸、給糧艦早埼、八紘丸からなる船団を駆逐艦時雨、第34号駆潜艇、第19号海防艦とともに護衛してブルネイを出港、19時30分にミリへ到着した。現在、マニラを策源地としてレイテ島に増援部隊を送る多号作戦が繰り広げられており、艦艇や航空機の燃料を確保する必要があった事からタンカーを護衛してマニラに進出するよう命じられる。11月6日、千振、第19号、時雨の3隻は萬栄丸と雄鳳丸を護衛してミリを出発。激しい空襲下にあるマニラへ向かう。だが11月8日未明、ミンドロ島沖で米潜ヘイク、グロウラー、ハードヘッドからなるウルフパックに捕捉され、午前4時頃にスービック湾南西160海里でハードヘッドから雷撃を受けて萬栄丸が撃沈。これを受けて潜水艦を探知した千振ら3隻の護衛艦艇は激しい爆雷攻撃を行ってグロウラー(1526トン)を仕留めている。またヘイクとハードヘッドも16時間に及ぶ対潜制圧を受けて浮上出来なかった。何とかウルフパックの包囲網を食い破ったものの、タンカーが雄鳳丸だけになってしまったため雄鳳丸を護衛してミリへ後退、時雨のみマニラに進出した。その後、再び雄鳳丸を護衛してミリを出発し、今度こそマニラへの進出を成功させた。しかし策源地のマニラですら決して安全な場所ではなく、米機動部隊が放った敵艦上機が港内の艦艇や地上施設を狙って盲爆し続ける。湾内に点在する沈没船のマストは差し詰め船の墓標であった。

11月15日、千振、第17号、第19号は雄鳳丸を護衛してマニラを出港。11月23日、パラワン水道南下中にサイゴンから応援に来た第17号海防艦が加入。11月26日15時、ボルネオ島バラム岬沖で米潜パーゴから4本の魚雷が伸びてきて、全て雄鳳丸に命中してしまい、船体を真っ二つにへし折られる。即座に反撃へ転じた千振ら護衛艦艇の爆雷攻撃により、パーゴはレーダーと発電機を破壊されて退却。雄鳳丸の後部は沈没してしまったが前部は浮いていたため千振が曳航してミリに連れ帰った。11月28日と30日にミリ在泊中に敵の空襲を受けて小破。また雄鳳丸は浸水を抑えられず12月2日に沈没している。

12月18日、米潜バーゴールに雷撃されて航行不能に陥った重巡妙高救援のため、シンガポールから重巡羽黒が出撃。羽黒を千振、第102号哨戒艇、機雷敷設艇新井埼が護衛する。羽黒の曳航により妙高は12月25日にシンガポールまで辿り着き、護衛任務を成功させた。千振は12月29日まで修理を受ける。

1945年1月3日、燃料1万3000トンを積載してサンジャックに進出する日栄丸を第17号、第19号海防艦とともに護衛してシンガポールを出港。しかし1月6日22時15分、タイランド湾コタバル北東90海里で米潜水艦ベスゴから6本の魚雷が発射され、日栄丸の左舷後部機関室に命中。約5時間炎上した末に沈没してしまう。千振ら護衛の海防艦が海面に漂う生存者を救助し、1月10日にサンジャックへ寄港した。

最期

1945年1月12日、アメリカ軍はグラティテュード作戦を発動。南シナ海にまで米機動部隊を侵入させ、インドシナ沿岸及び香港付近の在泊艦艇を一気に撃滅しようとした。

サンジャックにも敵艦上機の大群が現れ、午前9時1分より千振、第17号、第19号が対空戦闘を開始。まず最初にTBFアベンジャー雷撃機が放った魚雷2本を喰らって第17号が轟沈する。午前9時51分、千振の左舷後部と右舷後部に至近弾を示す水柱が築かれ、午前10時12分に左舷2番砲応急弾薬庫付近に爆弾1発が直撃するが、これは不発弾で済んだ(衝撃で上甲板に直径約70cmの破孔が生じる)。次に第19号が集中攻撃を浴びて午前11時頃に沈没。敵機の猛攻を捌きながら内火艇を降ろして撃沈された僚艦の生存者を試みる。また、第5艦隊旗艦の足柄からシンガポールへ脱出するよう指示があり、出港準備も並行して進められた。そして午前11時20分、最後まで奮闘していた千振も2番砲、機械室、士官浴室にそれぞれ爆弾が命中して艦後部が大火災に見舞われ、10分後にいよいよ総員退艦命令が出された。午後12時30分、ここまで勇敢に戦い続けた千振も武運拙く沈没。乗組員86名が戦死した。

1945年3月10日除籍。

関連項目

  • 大東亜戦争
  • 軍用艦艇の一覧

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最終更新:2025/12/08(月) 01:00

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