千振(海防艦) 単語

チブリ

7.7千文字の記事
これはリビジョン 3202816 の記事です。
内容が古い・もしくは誤っている可能性があります。
最新版をみる

千振(海防艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した御蔵型海防艦7番艦である。1944年4月3日工。潜水艦グロウラーを僚艦と協同撃沈した戦果を持つ。1945年1月12日インドシナ航空攻撃を受けて沈没

概要

艦名は香川県小豆島北東から約1km西方先に位置する千振から。

前級択捉の設計に改良と対潜力強化を施し、より汎用性を高めたのが本級の御蔵となる。択捉までは北洋での活動を視野に入れていたが、大東亜戦争戦場は南洋だったため活動に適さず、また構造が複雑なせいで大量生産にも向かなかった。そこで30隻建造する予定だった択捉を14隻で打ち切り、残り16隻を設計改良を加えた御蔵に変更して建造する事に。

御蔵は、北洋警備を眼に置いていた択捉から運用方針を転換し、南洋における団護衛用海防艦として設計。択捉の貧弱な対兵装を補うためから高に換装、航続距離を犠牲にして爆雷搭載数を36個から120個に増やし、九三式水中聴音機と九三式水中探信儀を新たに搭載、加えて単艦式掃具も艦尾両舷に1基ずつ装備している。また工時から22号水上電探を備える現場待望の海防艦であった。択捉より対潜装備が強化された事は一定の評価を得たが、1隻建造するのに約8.8ヶを要する量産性の低さが問題視され、次級の日振では更に簡略化が進められた。ちなみに大具はクッソ役に立たない代物だったようで、久米以降の日振ではバッサリ撤去されている。

排水量940トン、全長77.5m、最大幅9.1m、機関出力4200力、最大速力19.5ノット、燃料搭載量120トン、乗員150名。兵装は45口径12cm単装高E改一1門、同連装高A型改三1基、三式8cm対潜迫撃砲1門、25mm連装機2基、九四式爆雷投射機2基、爆雷投下軌条2条、九五式爆雷120個、掃具、6メートルカッター2隻、6メートル内火艇1隻。電測装備は22号水上電探、九三式水中聴音機、九三式水中探信儀。

艦歴

起工から竣工まで

戦前1941年8月15日より発動されたマル急計画において建造が決定。建造費511万2000円が捻出される。この時は択捉として建造される予定だったが、未起工で設計変更が間に合った16隻を御蔵に変更。

1943年7月20日、第329号艦の仮称を与えられて日本鋼管鶴見所(横浜市)で起工。8月31日に千振と命名され、艦種を海防艦に、艦を御蔵に定められる。11月30日進水式を迎え、1944年1月20日装員事務所鶴見所内に設置して事務を開始、1月30日装員長として石山泰三大尉が着任する。そして4月3日工を果たした。装員事務所を撤去するとともに石山大尉が艦長に就任。横須賀鎮守府へ編入され、海防艦の訓練を担当する呉鎮守府部隊防備戦隊に部署する。

1944年4月4日から5日まで本籍地の横須賀へ寄港。4月7日へと回航されて9日より5日間で入渠整備を受けた後、4月16日を出港して佐伯湾や宿毛湾で慣熟訓練に従事した。5月1日、艦長の石山大尉少佐に昇進。5月14日には上護衛総部第1上護衛隊へ転属し、出撃に向けてで重タンク及びバラストタンクの漏洩、烹炊用気畜器の裂を修理する。5月24日に第19号海防艦とともにを出港し、翌日団の集結地となっている門港へ到着。

1回目の船団護衛

5月29日午前6時、商改造空母神鷹練習巡洋艦香椎海防艦淡路、第11号、第19号、第60号駆潜艇とともに輸送5隻からなるヒ65団を護衛して門を出発。東南アジアにおける物資集積地シンガポールす。雷艇に護衛された後発のグループも門を出発してヒ65団に加わった。

ところが6月2日午前2時45分、バシー峡にて潜水艦ギターロが6本の魚雷を発射。伸びて来る雷跡を発見した姉妹淡路団旗艦の香椎通報するも、直後に魚雷の射線へ入り込んで被雷・沈、淡路沈没はヒ65団を恐慌状態に陥れ、四方八方へ逃げ出す。その中で千振と第19号が生存者の救助活動を行い、第19号が5名、千振が数名を救助する事に成功(戦傷が原因で後から死者が出ている)。また雷撃による混乱有馬山丸と神州丸が衝突。搭載の爆雷が起爆して神州丸が航行不能に陥ったため香椎が基まで航する事になり、淡路の救難作業で団から遅れていた千振と第19号が2隻を護衛した。6月3日正午台湾北東部の基へ入港。同日中に基を出発して20時に南東部の高雄へ到着する。

6月5日20時、護衛空母海鷹給油タンカー仁栄丸を新たに加えたヒ65団を護衛して高雄を出発。6月8日午前9時6分、インドシナを航行中に潜水艦ガンネルに発見されるも、SJレーダーが34里先に航空機を捕捉した事で潜航退避、次に浮上した時には団の姿が消えていて攻撃チャンスを失った。そして6月12日13時50分、的地のシンガポールに到着して護衛任務を了させた。

6月17日午前4時、千振、香椎、第7号、第11号海防艦とともにヒ66団を護衛してシンガポールを出発。敵潜水艦が待ちせしやすい深海を可な限り避け、浅瀬が多いインドシナ沿に沿って北上。帰路は潜の襲撃を受けず6月26日13時団は門へと到着して護衛を終了。

翌27日13時日立造船所に入渠して第10番重タンク外鈑修理機械ピストン抜出検を実施。続いて7月1日から9日まで体や機関修理を受けた。7月10日、千振、第13号、第17号、第19号海防艦の4隻で新たに第1防隊を編成し、千振は海防艦定されて池田中佐が乗艦。7月11日を出港して門に回航する。

2回目の船団護衛

7月13日16時神鷹香椎海防艦佐渡、第7号、第17号とともにヒ69団を護衛して六連を出港。団には大鷹海鷹も加わっていたが、この2隻はマニラ向けの航空機を積載した輸送艦扱いのため、対潜哨戒機を持っているのは神鷹だけだった。7月17日19時45分、高雄外港の左栄泊地で一旦停泊し、翌18日午前2時45分に出発。

ところが間もなくロックタイルフィッシュ、ソーフィッシュからなるウルフパックに捕捉されてしまう。午前6時頃、高雄潜水艦ロックがはりま丸を狙って魚雷4本を発射、このうち1本がはりま丸の体に命中するが不発で終わって損軽微。次にソーフィッシュがヒ69団に9本の魚雷を発射。再び1本がはりま丸に命中するも依然航行可な状態であった。午前10時55分、今度はタイルフィッシュから雷撃を受けて対潜掃討中の第17号海防艦が大破。損傷を負った第17号と播磨丸を高雄へ向かわせた。7月20日21時マニラへ寄港。ここで団の再編制が行われ、大鷹はヒ68団に加わって内地帰投、海鷹はマモ団護衛のためマニラで留まる事になり、ヒ69団には新たに第13号と第19号海防艦が護衛に加入する。

7月25日午前5時30分、ヒ69団とともにマニラを出港。神鷹の九七式艦攻1機が面に不時着して失われる事故があったものの、それで憑き物が落ちたのか敵襲を受ける事く、7月31日17時36分にシンガポールへ入港。現地で内地帰投を命じられている駆逐艦霜月海防艦満珠が護衛に加わった。

8月4日21時神鷹香椎霜月佐渡、満珠、第13号、第19号とヒ70団(加入船舶8隻)を護衛してシンガポール出港。中でマニラから出発してきた中破状態の軽巡北上団に加える。8月12日午前8時、探知した敵潜水艦を攻撃するため佐渡と第13号が切り離され、神鷹の九七式艦攻とともに対潜攻撃を行って撃沈を報じた(該当艦し)。その後、佐渡は対潜掃討を行いながら単独で基に向かった。8月15日14時30分、ヒ70団は門へ到着して護衛任務了。翌16日に門を出発した千振は佐世保へ回航して入渠。重タンク鋲打換修理機械ピストン抜出検を行うとともに、十二双眼望遠鏡の搭載工事を実施した。

8月23日午前9時、第19号海防艦とともに佐世保を出港し、同日18時福岡県大牟田市三池港へ回航する。続いて8月24日午前7時に三池港を出発して翌午前5時に門へ移動。現地でヒ73団と合流した。

3回目の船団護衛

8月25日午前6時30分、護衛空母雲鷹練習巡洋艦香椎海防艦5隻(千振、第3号、第19号、第21号、第27号)が護衛するヒ73団と門を出港。翌26日に第1号第13号海防艦が護衛に加わるが、栄丸がエンジントラブルを訴えたため第1号と第3号を伴って佐世保へ後退。瑞穂丸、あらびあ丸、黒龍丸の3隻は異常煙の量が多く、敵に発見されやすい状態だったため反転帰投を命じられた。8月28日午前11時40分、千振は九七式艦攻や第27号とともに敵潜を攻撃する。8月29日16時から20時30分にかけて高雄近郊の左栄泊地で仮泊。

8月31日14時35分、九三式中練習機が敵潜を発見して印の発煙弾2発を投下。次に雲鷹所属の九七艦攻、千振、第21号を現場まで誘導して15時30分より一斉に爆雷を投じた。この対潜攻撃で潜タニイを撃破したとする資料がある。9月1日午前8時49分、第21掃隊(第38号、第39号掃海艇)、海防艦屋代雷艇が合流し、マニラ行きの吉備丸、護丸、香久丸、伊良湖を連れて団より離脱。その後も度々敵潜が探知されているが、9月3日20時23分に東亜丸が触雷損傷した以外は特に大きな問題は起きず、9月5日午前9時54分、団はシンガポールへと事到着。

9月11日午前11時雲鷹香椎、千振、第13号、第19号、第21号海防艦はヒ74団を護衛してシンガポールを出港。しかし度の航は多大な困難が待ち受けているのだった。翌12日午後12時45分、雲鷹所属機が面に広がる膜を発見し、第13号、第27号、九七式艦攻が攻撃を加える。9月16日22時31分、クイーンフィッシュの雷撃により御室山丸が被雷。異常を悟った香椎から潜水艦襲撃を意味する赤色照明弾が打ち上げられた。だが被害の拡大は止められず、23時34分にバーブからの雷撃で1TLタンカーあづさ丸雲鷹が一挙に被雷、燃料を満載していたあづさ丸は一で爆沈し、雲鷹もまた団より落してしまう。翌17日午前7時55分、修理用を含む48機の航空機を抱えたまま雲鷹は右舷側へ転覆して沈没。千振や第27号の尽力により士官55名と兵706名が救助された。9月18日18時団は高雄へ寄港して短期間停泊する。9月19日正午高雄を出発。9月21日爆撃を受けたヒ72団救援のため第21号が分され、後にヒ74団との合流を果たした。

9月23日17時団を六連まで護送した後、すぐさま千振は出発して翌24日に佐世保へと入港。9月29日まで入渠整備を受ける。9月30日午前5時佐世保を出港し、19時30分に門へ到着。

4回目の船団護衛

10月1日午前8時、ヒ77団を護衛して門を出港し、奄美大島の有湾で仮泊。翌2日午前7時に有湾を出発してシンガポールす。加入船舶が12隻なのに対し、護衛兵力は千振を含む海防艦4隻のみと非常に心細い容であった。台湾前に控えた10月5日丸が基へ向かうため団より離脱、残りは同日中高雄へ寄港。現地で海防艦択捉や昭南と合流したのちすぐさま高雄を出発する。

10月6日14時10分、潜ホエールはヒ77団に向けて魚雷5本を発射し、あかね丸が被雷が撃沈される。第21号海防艦あかね丸の生存者を救助し、下手人のホエールを捜索する中、17時57分に今度はシーホース魚雷6本を扇状に発射。そのうち1本が第21号に命中して艦体をっ二つに折って沈没あかね丸の生存者を含む170全員が戦死した。翌7日19時マニラ西方ウルフパック「ホルツ・キャッツ」に所属するベクーナがヒ77団をレーダーで捕捉し、僚艦のバヤとホークビルを呼び寄せる。数分後、ホークビルがヒ77団を視で発見。21時49分、大貨物船に向けて魚雷6本を発射するが全て外れて難を逃れる。雷跡を確認した寿丸がホークビルに突撃して爆雷を投下。しかし、寿丸の勇敢な行動にも関わらずホークビル22時の雷撃で衣笠丸に魚雷を命中させ、総員退が出される。寿丸の更なる爆雷投下も実を結ばず、22時24分にホークビルは3本の魚雷を発射し、このうち2本が衣笠丸に命中して弾薬誘爆黄色の爆炎が数メートルにまで立ち昇った。

多くのものを失いながらもヒ77団は10月12日15時シンガポールへ入港した。10月15日、千振に乗艦中の池田大佐に昇進する。

東南アジア方面での活動

一号作戦前に控えた10月17日、千振、機雷敷設艇由利、第19号、第27号海防艦、第34号掃海艇、タンカー厳島丸は栗田健男中将率いる第1遊撃部隊の第1補給部隊に編入。深刻なタンカー不足に悩まされていた栗田中将は千振、第19号、厳島丸、栄丸にボルネブルネイへ進出するよう命

10月19日シンガポールを出港し、10月22日ブルネイへ到着。しかし捷一号作戦には間に合わなかったようで栗田艦隊は既にブルネイを出撃した後だった(燃料補給は雄鳳丸と八紘丸から受けた)。10月24日志摩艦隊への燃料補給のため第17号、第19号、第27号とともに給油タンカー日本丸を護衛してブルネイ出発。総力を挙げたレイテ沖海戦が終わった後、ブルネイへの帰投を命じられた厳島丸、日本丸を第27号と千振が護衛する。10月27日午前2時48分、パラワン西方にて水上航行していた潜水艦バーゴールレーダー探知され、午前3時36分に魚雷6本を発射。く間に厳島丸と日本丸が被雷してしまう。まず午前5時10分に1万3000トンの燃料を抱えた日本丸が沈没厳島丸は大破航行不能に陥ってボルネオ近で漂流するが、幸運にも潜水艦が活動出来ない浅瀬だったため、バーゴールはこれ以上の追撃を断念。その間に千振と第27号が爆雷14発を投下してバーゴールを追い払い、厳島丸は千振に航されてブルネイへ帰投した。

10月31日午前6時30分、栄丸、雄鳳丸、給糧艦埼、八紘丸からなる団を駆逐艦時雨、第34号駆潜艇、第19号海防艦とともに護衛してブルネイを出港、19時30分にミリへ到着した。現在マニラを策地としてレイテに増援部隊を送る多号作戦が繰り広げられており、艦艇や航空機の燃料を確保する必要があった事からタンカーを護衛してマニラに進出するよう命じられる。11月6日、千振、第19号、時雨の3隻は栄丸と雄鳳丸を護衛してミリを出発。しい襲下にあるマニラへ向かう。だが11月8日未明、ミンドロ潜ヘイク、グロウラーハードヘッドからなるウルフパックに捕捉され、午前4時頃にスービック湾南西160里でハードヘッドから雷撃を受けて栄丸が撃沈。これを受けて潜水艦を探知した千振ら3隻の護衛艦艇はしい爆雷攻撃を行ってグロウラー(1526トン)を仕留めている。またヘイクとハードヘッド16時間に及ぶ対潜制圧を受けて浮上出来なかった。何とかウルフパックの包囲網を食い破ったものの、タンカー雄鳳丸だけになってしまったため雄鳳丸を護衛してミリへ後退、時雨のみマニラに進出した。その後、再び雄鳳丸を護衛してミリを出発し、今度こそマニラへの進出を成功させた。しかし策地のマニラですら決して安全な場所ではなく、機動部隊が放った敵艦上機が港内の艦艇や地上施設を狙って盲爆し続ける。湾内に点在する沈没マストは差し詰め墓標であった。

11月15日、千振、第17号、第19号は雄鳳丸を護衛してマニラを出港。11月23日、パラワン道南下中にサイゴンから応援に来た第17号海防艦が加入。11月26日15時、ボルネバラパーゴから4本の魚雷が伸びてきて、全て雄鳳丸に命中してしまい、体をっ二つにへし折られる。即座に反撃へ転じた千振ら護衛艦艇の爆雷攻撃により、パーゴはレーダーと発電機を破壊されて退却。雄鳳丸の後部は沈没してしまったが前部は浮いていたため千振が航してミリに連れ帰った。11月28日と30日の両日、ミリ在泊中に敵の襲を受けて対戦闘を行った際に小破。乗組員2名が死亡、16名が負傷した。また雄鳳丸は浸を抑えられず12月2日沈没している。

12月18日バーゴールに雷撃されて航行不能に陥った重巡妙高救援のため、シンガポールから重巡羽黒が出撃。羽黒を千振、第102号哨戒艇、機雷敷設艇新井埼が護衛する。羽黒航により妙高12月25日シンガポールまで辿り着き、護衛任務を成功させた。千振は12月29日まで修理を受ける。

1945年1月3日、燃料1万3000トンを積載してサンジャックに進出する日栄丸を第17号、第19号海防艦とともに護衛してシンガポールを出港。しかし1月6日22時15分、タイランド湾コタバル北東90里で潜水艦ベスゴから6本の魚雷が発射され、日栄丸の左舷後部機関室に命中。約5時炎上した末に沈没してしまう。千振ら護衛の海防艦面に漂う生存者を救助し、1月10日サンジャックへ寄港した。

最期

1945年1月12日アメリカ軍はグラテテュー作戦を発動。南シナにまで機動部隊を侵入させ、インドシナ沿及び香港付近の在泊艦艇を一気に撃滅しようとした。

サンジャックにも敵艦上機の大群が現れ、午前9時1分より千振、第17号、第19号が対戦闘を開始。まず最初にTBFアベンジャー雷撃機が放った魚雷2本を喰らって第17号沈する。午前9時51分、千振の左舷後部と右舷後部に至近弾を示す柱が築かれ、午前10時12分に左舷2番応急弾薬庫付近に爆弾1発が直撃するが、これは不発弾で済んだ(衝撃で上甲に直径約70cmの破孔が生じる)。次に第19号が集中攻撃を浴びて午前11時頃に沈没。敵機の猛攻を捌きながら内火艇を降ろして撃沈された僚艦の生存者を試みる。また、第5艦隊旗艦の足柄からシンガポールへ脱出するよう示があり、出港準備も並行して進められた。そして午前11時20分、最後まで奮闘していた千振も2番機械室、士官浴室にそれぞれ爆弾が命中して艦後部が大火災に見舞われ、10分後にいよいよ総員退艦命が出された。午後12時30分、ここまで勇敢に戦い続けた千振も武運拙く沈没。乗組員86名が戦死し、石山艦長を含む263名が救助された。

1945年3月10日除籍。

関連項目

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/12/07(日) 11:00

ほめられた記事

最終更新:2025/12/07(日) 11:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP