厚木航空隊事件とは、1945年8月15日に厚木基地で発生した第302海軍航空隊の反乱事件である。厚木航空隊反乱事件、厚木事件とも言われる。
1945年8月15日正午、ポツダム宣言受諾を伝える玉音放送が流れ、3年8ヶ月に及んだ大東亜戦争は幕を下ろした。しかし陸海軍には230万の兵力が残っており、降伏を快く思わない徹底抗戦派が数多く存在していた。厚木基地に展開する第302海軍航空隊司令・小園安名大佐もその一人であった。
夜間戦闘機月光の生みの親である小園大佐であるが、(成果を挙げるまで)月光の配備に反対されたり、拒絶していた特攻への出撃を強いられるなどをしたため、海軍上層部への強い不信感を抱いていた。また日本が降伏すればソ連によって皇室が根絶やしにされると考えており、天皇制や国体護持のため徹底抗戦を決意。玉音放送が終わると、部下を集めて訓示を行った。「日本は神国、降伏は無い!国体に反するが如き命には絶対に服さない」「降伏の勅命は、真の勅命ではない。(中略)敵司令官のもとに屈した降伏軍は、皇軍と見なす事は出来ない。日本の軍隊は解体したものと認める。ここに我々は部隊の独立を宣言し、徹底抗戦の火蓋を切る」と宣言。反乱軍となり、厚木航空隊事件が勃発した。小園大佐は最後まで戦う者と家に帰る者を分け、抗戦を望まない者は帰宅を許された。しかし誰一人として帰る者はいなかった。
反乱将兵は83名に達し、厚木基地航空隊本部は占拠された。8月16日、航空機を使って檄文のビラを撒いた。首都圏、関東、東北、中部、北海道、中国、四国と幅広い地域でビラが撒かれている。同時に連合艦隊司令部や全部隊に対し、部隊の独立を宣言。米内海軍大臣から反乱の中止を求められたが、小園大佐はこれを拒否した。午後になると直属の上官である第三航空艦隊司令の寺岡中将が説得に現れ、降伏に応じるよう求めたが小園大佐は聞く耳を持たなかった。その日の夜、小園大佐はマラリアを発症し、高熱と錯乱状態となる。厚木基地にはGHQの航空機が着陸する予定となっており、是が非でも早期に反乱を鎮圧しなければならなかった。8月17日、米内大臣は厚木の武力制圧を命じたが、寺岡中将の猛反対により断念。
小園大佐とは同期の間柄である佐藤六郎大佐が特命派遣委員に選ばれ、厚木基地の鎮圧を命じられる。彼は厚木基地内の中立派や警察、消防、行政に助力を求めたが、どこからも支援を受けられなかった。やむなく佐藤大佐は基地の出入り業者である大安組社長の安藤明氏を伴って決死の突入を決意。
8月21日朝、強行突入した佐藤大佐により麻酔を打ち込まれ、小園大佐は海軍野比病院の独房に監禁された。しかし司令官を失ったものの反乱軍の戦意は全く衰えなかった。より強固に降伏否定を表明し、午前10時30分に零戦、彩雲、彗星32機が厚木基地を離陸。陸軍部隊の決起を促すため、零戦18機は狭山飛行場へ、13機は児玉飛行場へと降り立った。しかし全員拘束され、厚木基地へと戻された。同日22時、第302航空隊に対し武装解除と復員の命令が下された。佐藤大佐の説得により、航空隊内にも武装解除に応じる人間が出始めた。安藤社長は全国の仲間を集め、GHQ進駐妨害のため飛行場にバラ撒かれた航空機の残骸やビラを撤去。8月26日の先遣隊進駐に見事間に合わせる事に成功した。
こうして第302海軍航空隊の反乱は鎮圧されたのだった。
10月15日から16日にかけて巣鴨拘置所で横須賀鎮守府臨時軍法会議が開かれ、小園大佐は官位を剥奪のうえ無期禁固刑が言い渡された。士官は禁固刑となったが、下士官と兵は執行猶予がついた。
1946年11月3日、日本国憲法の公布により小園元大佐を除く全員が釈放された。小園元大佐も無期刑から禁固20年に減刑され、1950年12月5日に仮釈放と相成った。そして1952年4月28日に放免となった。
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最終更新:2025/12/09(火) 14:00
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