吉永幸一郎とは、かつて福岡ダイエーホークス、読売ジャイアンツに所属した元プロ野球選手である。ポジションは捕手、一塁手。城島健司の前のダイエー正捕手である。
東海大学工業高校から1987年ドラフト5位で南海ホークスに入団。南海最後のドラフト組の一人。同期に大道典嘉、村田勝喜、柳田聖人、吉田豊彦と、初期のダイエーを支えた面々がいる。
1988年、1989年は一軍出場なし。1990年に初めて一軍登録され、暫くは一軍と二軍を行ったり来たりだったが、当時ダイエーの監督だった田淵幸一から正捕手に抜擢され、以後、長打力のある捕手として、クリーンナップで使用されることが多くなった。
1996年に膝を故障してからは、1995年ドラフトで入団した城島健司にスタメンマスクを譲り、主に一塁手として活躍。1997年に内野手に正式コンバートされ、松中信彦が一塁手を守るまで、守備についていた。
1997年シーズンは自己最高打率.300、自己最多本塁打29本をマーク。しかし、翌1998年は小久保裕紀の出場停止(脱税事件+怪我でその後も出場機会激減。)で4番を任せられるも、打率.249、本塁打13、打点48と、思った通りに活躍出来なかった。
1999年は主に指名打者として出場し、打率.275、本塁打16、38打点でダイエーの優勝に貢献した。しかし、日本シリーズに出場できず、FA宣言をほのめかしたが、残留した。
2000年は打率、本塁打、打点ともに前年の成績を下回り、規定打席に達しないものの、スタメンマスクを被ったり、代打として起用されるなどして、ダイエーの連覇に貢献した。
2000年シーズンオフに大野倫、佐藤誠との交換トレード(実際は大野+金銭だったが、金銭を辞退し、ダイエーが無償で佐藤を獲得。)で読売ジャイアンツに移籍。主に代打として起用され、2003年に引退した。
ダイエー時代は1991年より背番号『27』を背負っていたが、1998年のみ『3』を背負っていた。
ダイエー時代、福岡ドームに本拠地が変わった際、バックスクリーン方面によく飛ばしていたことから、周囲からパワーの凄さを評価されていた。1997年に29本塁打を放っているが、ノーゲームで1本損しているため、この1本があれば、3割30本という数字を叩いていた。
引退後は会社経営をしていたが、会社は倒産。その後、野球教室を運営する目標のために、日々努力している。
『細かすぎて伝わらないモノマネ選手権』で、360°モンキーズがパリーグの打者と捕手のモノマネをする際、山内崇が『元ダイエーの吉永』として、吉永のモノマネをする。
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最終更新:2024/03/28(木) 18:00
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