大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)とは、20世紀前半の海軍戦略において支配的であった、「でっかい船にでっかい大砲積めば最強じゃね?」という考え方である。
単純に言えば、強力な砲を搭載し堅固な装甲によって防護された「最強の軍艦」である「戦艦」の質と量が海上戦力の優位を決定するという思想である。
ただし、その思想の全盛期は20世紀のうち前半だけであった。
20世紀初頭、1906年にイギリス海軍が建造した戦艦ドレッドノート級が大艦巨砲主義の先駆けであるとされる。
本級は複数配置された同一口径の主砲を一元的に管制する方式を採用し、従来型の戦艦とは比較にならない砲戦能力を得たことに加え、蒸気タービンの採用によ る優れた速度性能も併せ持っていた。また防御力についても
ドレッドノート級は列国が(そしてイギリス自身も)運用・建造中の戦艦を一気に陳腐化させ、列国はドレッドノートに比肩しうる戦艦を「弩(ド)級戦 艦」(弩の字は当て字)、凌駕する戦艦を「超弩(ド)級戦艦」と呼ぶようになった。
こうして、列強は大建艦競争の時代に突入していくことになる。
自己の砲を防ぐだけの装甲を持った戦艦は、より優れた砲を持つ戦艦をもってしか撃破し得ない。
つまり、強力な戦艦がどれだけ保有するかが目的となり、実際に砲火を交えることなくその国の持つ海軍力が証明されると考えるにいたるようになった。
以後世界の列強各国では戦艦建造が猛烈な勢いで始まることとなる。建造されるたびに艦のサイズは大きくなり(と、同時に砲口径も増大し)、国家財政を転覆させかねないほどの建造費を必要とするにいたってようやく列強各国は頭を冷やして1921年、ワシントン海軍軍縮条約による中断期間(海軍休日)を迎えることとなる。
1937年の条約明け後もこの建造レースが続くかと思われたが、その直後に発生した第二次世界大戦において大艦巨砲主義に基づいて建造された戦艦の優位性は、発展著しい航空機及び空母に覆されることになった。
また、これら一連の流れをもって、過去の成功経験に基づくものの時勢にそぐわなくなりつつある手法などを揶揄する言葉として「大艦巨砲主義」が使われる場合がある。
一般的には、大艦巨砲主義は海軍戦略の航空主兵主義への転換に伴って終焉をみたとされる。
しかし実際には、それ以前に大艦巨砲主義の没落は始まっていたとする解釈もある。
第一次大戦においてドイツと英国の戦艦・巡洋戦艦隊が入り乱れたジュットランド(ユトランド)海戦において発生した予想だにしない中・遠距離砲戦は双方に多大な損害をもたらした。
それまで巨費を投じてこつこつと培ってきた戦艦がわずか数時間、一日の砲戦により海の藻屑と化す。この現実に衝撃を受けたのかドイツ海軍は艦隊保全主義により傾倒し、艦隊は「そこにいるだけ」であれば良いと考え、潜水艦などを使った通商破壊戦に注力することなる。対する英国はドイツの通商破壊戦に対して海上護衛戦を行うことになっていくことになった(この背景には英国との戦力差があまりにも大きかったのも一因している)。
これはWW1の戦いの有様が国家能力(経済など様々な点)を必要、あるいは阻害するための総力戦となったため、局所的な海上支配権を獲得するための手法として海戦という方法がコストパフォーマンス的に合わなくなってきたと証としてみるべきかもしれない。
またジュットランド(ユトランド)海戦の戦訓は、遠距離砲撃戦における大角度で落下する弾を防ぐためにはより一層の装甲化が必要であり、これは戦艦に対する建造・維持コストの増大化をさらに促した。
戦艦が実戦ではあまり意味のない金食い虫であるという認識を各国の海軍関係者がどれほど共有していたかはともかく、国家財政を傾けさせるほど巨額な経費がかかる戦艦の建造を抑えるべく戦間期には戦艦の建造は条約によって規制され、「海軍休日」と呼ばれる時期を経て、第二次大戦へと至る最後の建艦競争に突入した。
もっともこの時点で戦艦の攻撃手段である大砲による攻撃、というのは限界に達しようとしていたのも事実である。つまりどれだけ巨砲を搭載したとしても観測できる見通し距離は(地球は丸いので)水平線を越すことは出来ないという現実にぶつかることになった。
観測できない距離での砲撃を可能にするため、戦艦に弾着観測用の航空観測機を搭載しようという手法も生み出されたが、当時萌芽しつつあった航空機の集中運用プラットフォーム、すなわち空母に搭載されている艦載機によって阻害されることは眼に見えていた。
ここで諸外国の海軍関係者の中から、観測機を蹴散らすための航空機に爆弾を積めば、より遠距離での攻撃が可能になるのでは?というアイデアに達する者が出てくるのは時間の問題だったといえるだろう。
もっとも、この時点では航空攻撃によって行動中の戦艦を撃破することが可能だとはまだ確信されていなかったのであるが。
第二次大戦が始まると、タラント空襲、次いで真珠湾攻撃において、空母航空戦力が戦艦を撃破しうることが証明された。さらにはマレー沖で航行中の戦艦・巡洋戦艦が航空攻撃によって撃破される事態に至り、航空主兵理論は大艦巨砲主義に対する優位を確立した。「戦艦が砲戦能力を発揮するための偵察役」あるいは「偵察役である観測機を撃破する」ためであった空母機動部隊の地位が、主従逆転したのである。
日本海軍が大和型戦艦を建造したことをさして、「時代錯誤な大艦巨砲主義」とあげつらう俗説をたまに信じている人がいるが、大和型計画当時は航空主兵の優位が証明されていなかっただけである。
一方、諸外国ではどうだったかというと、アメリカではルーズベルト大統領の経済政策による一つとして戦艦建造計画がスタートしていた。雇用対策、すなわち公共事業としての戦艦(だけではなく空母まで)量産が行われていたわけでもはや国力の差はいかんともしがたいものがあり泣ける始末である(日本海軍がアメリカ海軍に対して優越することが出来たのは開戦の有無に関わらず1943年前後だというのが日本海軍の判断で、背景があったからこそ山本五十六の「一年、二年であれば…」というあの有名な発言につながっている)。
もっとも最後の戦艦アイオワ級は大艦巨砲主義というよりは日本の金剛級を意識したような巡洋戦艦の進化型となって誕生していた。
英国ではキング・ジョージ5世級戦艦が戦争前に建造開始されたものの、生き残った四隻は戦争が終わるとあっという間に訓練艦、予備役艦艇扱いとなってしまった。戦争中に建造されたのはヴァンガード級戦艦だけ。さらにいうならもヴァンガード級の建造目的も未使用の砲身があったので、もったいないから…というもので、建造された一隻にとどまる(ただし英国の戦艦技術の粋をつくして作られたのはいうまでもない)。
大艦巨砲主義が覆されたとしても戦艦の存在意味が否定されたわけではない。その巨艦がもつ砲撃力を生かして沿岸砲撃に活躍した。金剛型(ガダルカナル・ヘンダーソン飛行場砲撃)、ガングート級(レニングラード攻囲)、アメリカ海軍戦艦によるノルマンディ上陸作戦、硫黄島や沖縄などの上陸戦で有効な砲撃を行っている。陸軍が運用する大砲のサイズはいいとこ口径120mm~210mmであり、これは駆逐艦の主砲サイズといってもいい。戦艦がいかに巨大な大砲を扱っているかわかるだろう。
金剛型戦艦による沿岸砲撃の成果は一個師団に匹敵する。という報告があがるのもむべなるかな、ということだ。
大戦後も、米海軍はアイオワ級を戦争のたびに沿岸砲撃用に引っ張り出し、後にトマホークやCIWSを搭載する魔改造をやらかした。お前はどこのウォーシップコマンダーだ。
ま、当時、トマホークを集中運用するプラットフォームがないから、ま、戦艦引っ張りだすならついでに乗せてしまえば? みたいなノリだったとは思うが…そのアイオワ級もすべて退役し、今は博物館として余生を過ごそうとしている。
余談ではあるが、アイオワ級最大の功績とはスティーブン・セガールと沈黙シリーズを世に送り出したことである。
シンプルに強く、堅く! を志向する大艦巨砲主義は、我々の意識の単純な部分に強く訴求する。
そもそも、つるん、ぺたん、な航空母艦(フラットトップ)よりも豊満でメリハリの利いた戦艦の構造そのものにに惹かれてしまう部分があるのは否めない。いや、両方好きですけど。
「あれ、戦艦に飛行甲板つけたら最強じゃね?」
「あれ、空母にでっかい砲積んだら最強じゃね?」
と妄想が膨らんでしまった人のために、「こうくうせんかん」というものがあります。
かつて日本海軍が保有していましたが、2009年3月、海上自衛隊が「重航空護衛艦ひゅうが」としてリメイクしてくれました。巨砲というには若干ものたりなくもありますが、せっかく予算を組んで建造してもらったのですから、ロマンを楽しんでみてください。
・・・という大艦巨砲主義の理想を完全に達成することは、現実的には様々な制約から不可能であることは歴史の教訓からみて自明である。
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最終更新:2024/04/24(水) 23:00
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