天皇は、日本の歴史上においては古代より続く日本の君主(元首)であり、現代日本においては日本国憲法に定められている「日本国及び日本国民統合の象徴」である。また、宗教的には宮中祭祀等を行う神道の長でもある。天皇の一族を皇族と呼び(天皇は皇族に含まれない)、天皇と一族を総称して“皇室”と呼ぶ。
神話の時代からの日本の歴史を書き綴った『記紀』によれば、初代の天皇は神武天皇であるとされる。また神武天皇の祖先は天照大神であり、ゆえに天照大神は皇室の皇祖神とされる。
伝説によると、弥生時代、宮崎県あたりの豪族の四男だった神武天皇は、もっと豊かな土地へ引っ越そうと兄たちと出発。筑紫や吉備の豪族に挨拶してから、河内潟(大阪府にあった入り江)から奈良盆地に侵攻を試みる。
しかし、生駒山麓で地元の長髄彦にボロ負けして長兄は戦死(正確には、負傷して後に死亡)。紀伊半島迂回を試みるが、嵐により残りの兄たちも遭難し、熊野に漂着する。そこから山越えをし、長髄彦を打ち破って奈良盆地南部に住み着く。
ただし、当時は「天皇」という称号は無く、「神武天皇」という諡号(東アジアにおいて使われてきた、君主に贈る称号のようなもの)は後世に付けられた物である。また、『記紀』に書かれている伝承に基づけば、神武天皇の即位は旧暦(太陰暦)では紀元前660年の正月、太陽暦では2月11日とされ、この日は戦前においては「紀元節」、戦後においては「建国記念の日」として、いずれも国の祝日となっている。なお、紀元節は終戦後に憲法や皇室典範などの皇室に関わる法の改正・廃止によって法的根拠を喪失していたため、戦後しばらくの時期、2月11日は祝日ではなく、後に紀元節の復活を願う政治家などの働きかけによって「建国記念の日」として復活した経緯を持つ。ただし、この年月日は飽くまで『記紀』の記述をもとに計算されて定められたものであるため、必ずしも歴史学・考古学上において正確な日付であるとは限らない。
2011年2月11日のような、雪の積もる寒い日では無かったとは思うが、まさか数千年後に祭日になり、お年寄りに寒い思いをさせるとは思わずに「雪天決行」してしまった可能性もある。
歴史学的には神武天皇は“神話の時代の架空の人物”という意見が主流だが、モデルとなった人物が居たという説もある。
第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までは、系図のみが伝わり、事績は明らかではない。これは、架空の人物であるとも、奈良盆地南部の小豪族であって記録すべき伝承が無かったとも言われる。現代の歴史学・考古学では、これら歴代8人の天皇をまとめて「欠史八代」と呼ぶことがある。
古墳時代の大和政権は、奈良盆地の纒向遺跡を拠点としていたと考えられる。崇神天皇(「ミマキイリヒコ」とも呼ばれるが、本名か諡号かは不明)は実在した可能性が高いとされる。纒向遺跡と邪馬台国の関係については、未だ結論は出ていない。
大和政権は、吉備(岡山付近)・出雲(山陰)・越(北陸方面)などの小王国と同盟を結び、あるいは征服して、北九州から東海地方あたりを勢力圏に収めた。当時の豪族には、子孫が神社の社家として存続している者もいる。
実在する天皇は15代応神天皇以降、あるいは26代継体天皇以降とする説もある。歴史学・考古学的観点からは継体天皇以降は確実とされているが、継体天皇で王朝交代が起こったという説もある。いずれの説でも現存する世界最古の皇室(王朝)であることは変わらない。詳しく知りたい人は日本史を勉強し直すことをオススメする。
平安時代は藤原氏などが天皇に娘を嫁がせ、天皇の外戚となる事で権力を振るったが、それでも天皇に権力は少なからずあった。しかし平安時代末期、武家政権の台頭によって天皇の政治的な権力は薄れていき、儀礼的・権威的な存在となっていく。
戦国時代は皇室経済が最もどん底だった時代で、即位礼や葬儀すら行えなかった時もあった。しかし、それでも戦国大名は天皇に取って代わる事はなく、むしろ自分の箔付けのために先を争って朝廷からの官位を欲しがった。破天荒といわれる織田信長も皇室に支援を行い、官位を打診されている。
江戸時代に入ると、徳川家は朝廷を禁中並公家諸法度などで縛り、ここに至って天皇の政治権力はほぼ無くなった。天皇は江戸時代を通じてほとんど静かな存在であり続けたが、それが幕末の黒船来航に至り、次第にクローズアップされるようになる。
幕末、尊皇攘夷(天皇を奉じて外国人を追い払う)運動が高まり、江戸幕府の揺らぎとともに静かであった天皇の権威は高まっていく。やがて尊皇は倒幕に結び付く事になり、江戸時代は終わりを告げる。新政府は明治に改元して王政復古を宣言、ここに天皇の政治権力が復活する。
当時、欧米列強が世界各地の植民地化を進めていく中で、日本の植民地化を免れるために明治新政府は天皇を国の中心に据え、近代化・富国強兵に邁進していく。
1889年には「大日本帝国は万世一系の天皇がこれを統治する」(第1条)、「天皇は国の元首にして統治権を総覧し、憲法の条規にそってこれを行う」(第4条)などと定めた大日本帝国憲法が制定され、近代立憲国家としての政治体制も確立されていった。
日清戦争・日露戦争を勝ち抜き、やがて日本は列強にまでのし上がる。やがて昭和に入ってアメリカとの対立が激化し、太平洋戦争が勃発。戦争の末日本は敗れ、有史以来初めて占領される。
占領中、アメリカを中心とした連合国には天皇を戦犯として裁き、天皇の存在を廃止する意見が強く存在したが、マッカーサーらによる占領統治の円滑化を目指す方針と、日本政府の抵抗があり、訴求は免れた。GHQとの交渉の末に日本国憲法が出来上がり、天皇は「国の統治者」から政治権力の無い「日本国及び日本国民統合の象徴」(日本国憲法第1条)という曖昧な存在となる。
戦後、天皇は「象徴」として存続する事になるが、終戦当時より昭和天皇の戦争責任を巡って微妙な立場にあった。日本人の保守の中にも「昭和天皇は退位し、皇太子が新たに天皇になるべき」との意見も出ており、天皇自身も退位をほのめかしたが、周囲の反対により退位はなくなった。
昭和天皇は敗戦で焦土となった日本全国を巡幸し、日本国民を慰め励ました。また、皇太子の御成婚といった慶事もあり、象徴天皇の存在は大衆に受け入れられる事となった。戦後昭和は天皇制打倒・革命を叫ぶ左翼の全盛期でもあったが、彼らの過激な行動は民衆をドン引きさせて支持者を大きく失う事になり、結局日本で革命は起こらなかった。
1989年、昭和天皇崩御。長かった昭和が終わりを告げ、平成の時代が始まった。 この際、過激な自粛が問題であると主張された事もあった。
21世紀の現在、皇室は皇位継承問題などの様々な問題を抱えているものの、古代からの伝統にのっとりあり続けている。
元々、古代においても天皇には絶対的な権力は無かったと思われるが、平安時代以降江戸時代まで、後醍醐天皇の建武の親政などごくわずかな例外を除き、天皇が直接政治に携わることはなかった。
逆に、直接的な権力を持たなかったがゆえに、天皇に取って代わろうとした(簒奪)者は足利義満など数名に過ぎず、時の権力者は自らは皇位に就かずに摂政・関白・征夷大将軍…といった地位に就き、天皇の権威を利用して統治を行った。
こうして、結果として日本では易姓革命は起こらず、アスクム以来(断絶はあるものの)の伝統を誇るソロモン朝エチオピア帝国に次いで、世界で2番目に古い王朝となった。なお、エチオピア帝国は1970年代のクーデターにより皇帝が逮捕・廃位されてしまったため、現代では日本の皇室が現存する王朝の中では世界で1番古い王朝となっている。
大日本帝国憲法では天皇は以下のように規定された。
第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス(天皇主権)
第四條 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ(統治大権)
この条文に対して、穂積八束に代表されるような天皇主権説や、美濃部達吉に代表される天皇機関説のような、様々な解釈が生まれた。詳しく知りたい人はウィキペディアで。
日本国憲法では天皇は以下のように規定された。
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
第三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
四条二項 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。
ということである。
古代においては「天皇」という呼称はなく、「大王(おおきみ)」と呼ばれていた。「天皇」という呼称が現れるのは飛鳥時代(7世紀頃)であり、聖徳太子の隋への国書に「東の天皇つつしみて西の皇帝に申す」とあるのが公式に使われた初めての例とされる。「天皇」という呼称は、中国で五胡十六国時代に使われた「天王」に由来するとも、唐の皇帝が使った「天皇」をそのまま持ち込んだとも言われるが、なにぶん1400年も昔のことなので、はっきりしたことは分からない。いずれにせよ、中国の「皇帝」という称号に対する何らかの対抗心はあったと思われる。
ちなみに明治から昭和戦前までは「日本国皇帝」という呼称も公式に使われていた事がある(韓国併合の時の条文等)。
日本と同じく漢字文化圏に属し、また反日国家である中国や韓国の政治家やマスコミ、民間人などには皇帝のみが使用を許される文字である「皇」が入った「天皇」という呼称を認めず、「倭王(倭国王)」「日王(日本国王)」とあえて格下げで呼ぶ心無い人間も多くいる(特に韓国ではそれが顕著である)。ただし、そんな中国や韓国でも、政府の公文書などの公的な場では国家儀礼上、きちんと「天皇」もしくは「日本国天皇」といった、正式な表記をしている。
英語圏など、漢字を使わない文化の国ではEmperorなど「皇帝」に対応した訳語で呼んでいるが、歴史等の学術上では日本語をそのまま写した「Mikado」「Tenno」と呼ぶ場合もある。
明治以降の天皇は一世一元の制によって「元号+天皇」で呼称されるが、これは天皇が崩御(天皇の死をこう呼ぶ)した後に贈られる追号であり、「神武」や「孝明」といった漢風諡号とは厳密には異なる。現在の天皇に対しては「今上天皇(きんじょうてんのう)」と呼ぶ。「今上」だけでも「現在の天皇」の意味であるが、分かりやすさなどから「今上天皇」となっているようである。他にも戦前は「聖上」など様々な呼び方があったが、戦後は「天皇」に皇室典範に定められている敬称「陛下」をつけて「天皇陛下」と呼ぶのが一般的になっている。
ちなみに、昭和天皇と同様の意味での「平成天皇」という呼称は誤りである。理由は同上。
ただし、仏教の伝わった奈良時代頃から江戸時代末までは、神仏習合の影響もあって神道と仏教ははっきり分かれていなかった。それゆえに仏教も皇室に深く関わっており、皇室の葬儀等は仏教式で行われ、江戸時代までの皇室の位牌は京都の泉涌寺など、皇室の菩提寺とされる寺院に祀られていた。孝明天皇(明治天皇の先代)は仏教式で葬儀が営まれた最後の天皇である。また、即位式も唐風であった。
これが明治維新後の廃仏毀釈や、神道を欧米のキリスト教のようなものにするべきとの考えによる国家神道の成立などによって仏教は皇室から切り離される事になり、即位などの儀式は神道形式一本になった。なおこれら菩提寺との縁が完全に無くなったわけではなく、菩提寺には明治以降の歴代天皇や皇族も訪れている。
現在の天皇誕生日は、12月23日で、国民の祝日に関する法律によって祝日になっている。また4月29日は、先代の昭和天皇の天皇誕生日である。
天皇や皇室について、人権問題や歴史的問題などとして反対する立場もある。、実際の政治運動として現在的には反天皇制運動連絡会(反天連)がある。かつては、共産党が「絶対主義的天皇主義の党の戦略方針」として天皇制廃止を唱えていたが、現在は「戦後、新しい憲法ができ、またいまの綱領決めて以後は、我が党には『天皇制廃止』という方針はない」としている。
漫画・アニメ・小説・ドラマを問わず、現在~近未来での扱いが非常に難しい存在。
ちょっとでも古ければ(少なくとも明治天皇まで)登場しても「史実通りなら」とりあえず問題は無いと思われる。
『源氏物語』では思いっきり「やらかしている」が、架空の帝なのでスルーされた。
ただ、最高権威者扱いだが最高権力者ではないため、政府打倒を目指す作品では内閣総理大臣が標的になる。
宇宙人や特殊組織などの圧迫の場合、「御前会議」での「すだれの向こう側にいる人」のような扱いもある。
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最終更新:2024/04/20(土) 00:00
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