宇山日出臣(うやま ひでお/ひでおみ、本名:宇山秀雄)とは、かつて講談社に勤めていた編集者である。
1944年京都生まれ。2005年に定年退職後、2年後に肝硬変で死去した。享年62歳。
同志社大学卒業後に三井物産に就職したが2年ほどで退社。中井英夫の『虚無への供物』を文庫化するため、1969年に講談社に転職し編集者になった(そして本当に文庫化した)。
名伯楽として島田荘司とともに講談社ノベルスから数々の作家を世に送り出し、新本格ブームを作った立役者である。
メフィスト賞やミステリーランドも立ち上げ、講談社そして講談社からデビューした数々の小説家にとって、彼の影響は計り知れない。
その功績を称えられ、東京創元社の戸川安宣とともに、第8回本格ミステリ大賞特別賞を受賞している。
ちなみに“日出臣”の名付け親は島田荘司である。島田さんって名前付けるの好きだよね。
「新本格の仕掛け人」「メフィスト賞とミステリーランドを立ち上げた編集者」という点から基本的にはミステリの編集者として語られる人物だが、実はいわゆるゴリゴリのミステリマニアではなく、もともとはSFが専門の人。
講談社に入って最初の大仕事は星新一から『エヌ氏の遊園地』の文庫化権を貰うことで、編集者として作った名刺の1枚目をなんとしても星新一に渡すため、名刺が出来上がっているのに誰に会っても「まだ名刺が出来ていなくて」と嘘をついていた、なんて逸話がある。
そうして講談社文庫入りした星新一の本が売れまくったため、1974年、講談社文庫にミステリ・SFを収録する「AX」(国内作品)「BX」(海外作品)分類ができ、念願だった『虚無への供物』の文庫化をそこで果たすことになった。
その後、文庫の投げ込みチラシで告知しただけの「星新一ショートショートコンテスト」がたいへんな反響を呼んだため、1981年に世界初のショートショート専門誌「ショートショートランド」を立ち上げることになり、そのために出来たのが講談社文芸第三編集部、いわゆる「文三」である。
「ショートショートランド」は1985年で終刊したが、文三はその後、1982年創刊の講談社ノベルスと、1987年創刊の少女小説レーベル・講談社X文庫ティーンズハートを担当することになり、宇山はその両方に携わった。そうして1987年に綾辻行人『十角館の殺人』が出て、日本のミステリの歴史が変わることになる。それ以降について詳しくは新本格の項を参照。
ちなみにメフィスト賞の媒体であった雑誌「メフィスト」の誌名の由来が小野不由美のデビュー第2作『メフィストとワルツ!』なのは、宇山が同時期に新本格とティーンズハートを両方担当していたからなのである。
宇山がミステリマニアではなくSFの人だったことは前述したが、何より彼は面白がりであり、変な小説が好きな編集者であった。新本格の後押しをしたのも、当時の文脈において新本格は「変な小説」だったからでは、と述懐する作家もいる。そのため、新本格でもジャンルの固定観念に囚われない作品をどんどん送り出した。メフィスト賞があれだけ変な作品の出る新人賞になったのも、宇山がそういった作品を世に出すことに積極的だったことが非常に大きい。
東京創元社の方の新本格の仕掛け人・戸川安宣はいわゆる「ゴリゴリのミステリマニア」タイプの編集者だったので、挑戦的な作品でジャンルの垣根を広げる革新派の宇山・講談社と、あくまで真っ当な本格の一線を守る保守派の戸川・東京創元社とでうまくバランスが取れていたのも、新本格の発展にとっては大きかったかもしれない。
また大変な飲んだくれで、酔っぱらって電柱に縛り上げられたとか芋虫になりきって床を這った等の伝説がある。
その人柄とミステリへの情熱から、作家は勿論編集者(他社含む)や読者にも愛された。
その証拠に、死去した際には雑誌「ダ・ヴィンチ」で特集が組まれたり、ブックフェアでミステリ作家たちが対談形式で懐かしんだりしていた。
これはあくまでも裏方である一編集者としては珍しいことである。
3’10ごろに『奇談社』の『宇多山』氏が登場。
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最終更新:2025/12/09(火) 19:00
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