宮城事件とは、大東亜戦争終結直前の1945年8月14日深夜から翌15日にかけて発生した事件である。
「みやぎ」ではない。八・十五事件、玉音盤事件とも言われる。
日本史上、最後に行われたクーデター。
1941年12月から始まった大東亜戦争は、今や日本の敗北で終わろうとしていた。1945年8月10日、防空壕で開かれた御前会議で、昭和天皇は連合国から出されたポツダム宣言を受諾する聖断を下した。これにより戦争は終結へと向かい始めたのだが、陸海軍ともに徹底抗戦派が数多く存在。未だ中国大陸には100万の元気な陸軍が残っており、総戦力は230万に達する等まだまだ戦える力があると抗戦派は唱えていたのである。聖断への反発からクーデターの火種が生まれようとしていた。
また連合国の曖昧な表現が、火種を爆発させる原因となった。天皇制の護持が絶対条件である日本は、連合国に対し「天皇の権限はどうなるか?」と問うた。間もなく「天皇は連合国に従う」という回答が返ってきたが、これを外務省は「制限下に置かれる(ちょっと不便になるだけよ)」、大本営は「隷属させる(天皇は戦勝国のおもちゃ)」と解釈。受諾派と徹底抗戦派に分かれる要因となってしまった。特に軍部の反発は激しく、これが宮城事件発生の引き金となる。実際、1945年6月に行われたアメリカの世論調査では天皇の処遇について「死刑にせよ」36%、「流刑にせよ」24%、「戦争犯罪人として扱え」17%、「何もするな」4%、「利用すべき」3%、「分からない」12%となっており、大本営の解釈は当然と言える。グルー国務次官やトルーマン大統領などの知日派は、天皇の立場を貶めれば日本国民全員が兵士となって襲い掛かってくる事を熟知していたため、説得や工作によって世論は覆された。そしてトルーマン大統領はポツダム宣言に天皇制の護持を認める一文を追加していたのだが、不幸にも直前の出来事だったので上手く伝わらなかった。
ポツダム宣言受諾に反対する陸軍軍務局の畑中健二少佐と椎崎二郎中佐が中心となり、8月15日正午に放送予定の玉音放送を阻止しようと反乱を計画。近衛師団参謀の石原貞吉少佐や古賀秀正少佐、航空士官学校生徒隊付の上原重太郎大尉、陸軍通信学校教官・窪田兼三少佐などを仲間に加え、宮城の占拠を企図した。これが後の世に言う宮城(きゅうじょう)事件である。決起部隊は徹底抗戦や本土決戦を望んでいたとする資料もあるが、国体護持(天皇制の維持)の確約を連合国から取り付ける事こそが真の目的だったとされる。
8月10日にポツダム宣言受諾の聖断は下り、皇族会議でも概ねの賛同は得られた。しかし8月13日午前9時から行われた最高戦争指導会議や閣議では議論が紛糾。特に阿南陸軍大臣、松阪広政司法大臣、安部源基内務大臣の3名が強固に反対した。だが15時の閣議で遂に受諾が議決され、連合国にもその事が伝えられた。
翌14日午前10時50分、最後の御前会議が開かれた。依然反対の姿勢を崩さない阿南大臣たちは「連合国に説明を求め、それまでは戦争の継続を」と涙ながらに訴えた。昭和天皇は「反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、私の考えはこの前申した事に変わりない」と再度聖断を下し、「自分は如何になろうとも、万民の生命を助けたい……万民にこれ以上苦悩を舐めさせる事は……忍びがたい……」と流れる涙を両手でぬぐいながら訴えた。いつしか列席者の間からもすすり泣きの声が聞こえ、反対派も遂に折れるのだった。鈴木首相は天皇の御意思を速やかに実行する旨を言上し、一度ならず二度までも御決断を仰いだ事を陛下に詫びた。こうしてポツダム宣言の受諾は不動のものとなった。陛下が退室された後、とある閣僚はひざまずいて悲嘆にくれたという。
午前11時より終戦の詔書の起草が始まり、22時頃に鈴木首相が昭和天皇のもとに奉呈。署名し、御璽(おしるし)を押された。23時から閣僚が順次署名し、同時に外務省はベルンとストックホルム経由で連合国に緊急電報を送り、「ポツダム宣言の受諾」と「詔書を発表する用意がある事」を明示した。NHKは15日正午に天皇が国民に向けて放送するという驚くべきニュースを報道。臣民にも伝わる事になった。
鈴木内閣は「宮内省で終戦の詔書を録音した方が良い」と考え、録音機材が密かに持ち込まれた。空襲警報の発令などで準備に手間取り、実際に録音が始まったのは14日深夜であった。昭和天皇の肉声を録音盤に収録するのだが、1回目の収録は緊張からか声の調子が高く、いくつかの単語が聞き取れなかった。やむなくリテイクし、二度目の録音が行われた。2回目も不満足な結果だったが、さすがに3回もやらせるのは畏れ多いという事で収録は終了。録音盤は侍従によって宮内省の奥深くにある金庫へ保管された。
ポツダム宣言受諾に反対する軍人は、陸海軍ともに数多く存在していた。ポツダム宣言には国体護持の約束が無く、受諾に納得が行かない近衛師団参謀の石原少佐と古賀少佐は、同じく反対派の畑中少佐や椎崎中佐と結託。降伏を阻止するべく反乱の準備にかかった。
まず接触したのが、反対派の阿南陸軍大臣だった。彼に「兵力使用計画」というクーデター計画を提示し、協力を求めた。内容は近衛兵と東部軍の兵で宮城を占領し、和平派の一掃とポツダム宣言受諾の破棄というものだった。しかし阿南大臣は計画に協力せず、それどころか東部軍の司令官・田中静壱大将に保安措置を強化し、公共の秩序を確保するよう命じた。つまりクーデターを起こせば、瞬時に鎮圧されてしまう状況に陥ってしまったのである。
だが畑中少佐と椎崎中佐は諦めなかった。今度は阿南大臣の義弟にあたる竹中正彦中佐に説得させ、逐一クーデターの戦況を伝えて協力を呼びかけ続けた。次に畑中少佐は、東部軍管区司令の田中静壱大将と面会。協力を求めたが、一喝されて逃げ出している。重鎮の後ろ盾を得られなかった反乱将校たちは、自分たちで決行する事を決意。陸軍省を訪れ、決起派の井田中佐と合流した。
8月15日午前0時、反乱軍は行動を開始した。午前1時45分、椎崎中佐、井田中佐、畑中少佐が近衛第一師団長の森赳中将を仲間に引き入れようと説得するが、森師団長は「たとえ陸軍大臣、参謀総長の命令であっても天皇陛下の御命令以外では決して動かない」と頑なに拒否。それでも必死の説得を受け、腹を決めるために「明治神宮に参拝しよう」という提案を持ちかけた。これを時間稼ぎと捉えたのか、畑中少佐はピストルで森師団長と白石参謀を射殺。午前2時頃、師団長室から出てきた畑中少佐が「許してくれ!こんなやり方で、これ以上時を空費するのを恐れるあまり、彼を殺ってしまった!」と顔面を蒼白にして叫んだ。
その後、師団長の印を勝手に使って命令書を偽造。「警備を強化し、宮城を外界から遮断せよ」という命令を出し、近衛歩兵第二連隊が宮城を包囲した。近衛師団の通信中隊が宮城・宮内庁間の電話設備を破壊し、通信手段を遮断。更に皇居警察官の非武装化をして占拠に成功する。午前2時30分、近衛師団より東部軍へ協力要請が行われたが、拒否されている。坂下門では、佐藤大尉率いる近衛歩兵第三連隊がNHKの技師・玉虫一雄以下18名を拘束、守衛所で監禁される。だが彼は録音されたレコードを持っていなかった。となれば、レコードは録音が行われた宮城に保管されているに違いないと反乱将校は思い至った。
8月14日深夜、宮城に録音用の機材がNHKによって持ち込まれ、そこで天皇はポツダム宣言受諾の旨をレコードに録音していた。このためレコードの原盤は宮城のどこかにあると踏み、反乱部隊は宮城の中を探し続けた。時には職員を殴打し吐かせようとしたが、彼らは口を割らなかった。そして遂に、一晩中探し続けても原盤は出てこなかった。また午前4時頃には師団命令が偽物だとバレ始め、近衛兵の動きが徐々に不活発なものになっていく。午前4時30分、畑中少佐は次の手段に出る。放送会館を武力で占領して玉音放送を不可能にし、ラジオを通じて臣民に決起を呼びかけようと画策。宮城を離れ、放送会館に徹底抗戦の放送を求めたが「警戒警報が発令中の場合には、東部軍管区司令部の許可が無いと出来ない。全国放送なら各放送局との技術的な調整が必要になる」と言われて断念。
8月15日早朝、宮城が東部軍に包囲される。午前7時に田中大将自ら宮城に乗り込み、占拠する近衛師団を説得。反乱に加担していた近衛兵は次々に投降し、事態は東部軍有利となった。午前8時頃には宮城から近衛兵が退却、この時点でクーデターはほぼ頓挫した。畑中少佐と椎崎中佐は宮城付近で徹底抗戦を記した檄文を撒き、決起を促したが、誰も応じる事は無かった。
玉音放送が始まる直前の午前11時20分、主犯格の椎崎中佐と畑中少佐は二重橋と坂下門の間の松林で自決。椎崎中佐は軍刀で腹部を貫いたのち頭部を拳銃で、畑中少佐は拳銃で額を撃ち抜いて自決した。二人は遺書と辞世の句を残していた。
その10分後には、放送を阻止しようと軍刀を振りかざした将校が放送会館へ乱入したが、取り押さえられている。放送中には森師団長の遺体の横で古賀秀正少佐が割腹し、介錯代わりに拳銃で自決した。阿南陸軍大臣も森師団長殺害の責任を取って割腹自決を遂げ、宮城事件は幕を下ろした。そして正午に玉音放送が流れ、3年8ヶ月に及んだ戦争は終わった。14時頃、椎崎中佐と畑中少佐の遺体は竹下中佐らの手によって市ヶ谷に移された。そこで阿南大臣とともに通夜が営まれ、梅津美治郎総参謀長が列席した。
決起派の上原重太郎大尉は宮城事件を生き残り、徹底抗戦の同志を求めていたが、森師団長殺害の罪で憲兵隊から出頭命令を受ける。逃げ切れないと悟ったのか8月19日未明、陸軍士官学校裏の航空神社で割腹自決を遂げた。石原貞吉少佐は決起派だったが、終戦後は決起した部隊の説得に奔走。8月19日、上野美術館を占拠した水戸教導航空通信師団を説得中、少尉が放った凶弾により死亡した。
玉音放送が流れてもなお、戦争を続けようとする者たちがいた。少数の右翼主義者や陸海軍の青年将校は終戦をもたらした首脳部に反発し、政府高官の邸宅に放火。東京の愛宕山でも右翼主義者が立てこもり、8月22日まで抵抗したのち全員が手榴弾で自決。埼玉県の電波中継所を占領した予備士官学校生徒が一日中NHKの放送を妨害するなど、混迷を極めた。宮城事件に参加し、生き残った窪田兼三少佐は終戦後も抗戦を呼びかけ、川口放送所占領事件を引き起こした。
厚木航空基地からは第5航空艦隊司令の宇垣纏中将が11機を率いて無断で出撃し、沖縄方面のアメリカ艦艇に特攻して全員戦死。小園安名中佐率いる第302海軍航空隊はポツダム宣言受諾を無視し、83名の将兵が離反。各地に檄文を書いたビラを撒いて徹底抗戦を訴えた。さらに海軍の妨害や皇族、上級将校の説得をも跳ね除けて23機の航空機を離陸させ、埼玉県の陸軍部隊を決起させようとした(厚木航空隊事件)。呉地区にも徹底抗戦を呼びかけるビラが撒かれたとの証言がある。しかしどの決起も鎮圧され、連合軍の進駐はつつがなく行われるのだった。8月29日、すぺての反乱が終わったのを機に田中静壱大将は拳銃自殺した。
戦後、決起した将校は国賊のような扱いを受け、畑中少佐の娘は「自分が子孫である事を言えなかった」という。1967年、宮城事件を題材にした映画『日本の一番長い日』が公開され、2015年にもリメイクされた事から一定の知名度がある。しかし決起理由が無謀な徹底抗戦の継続になっており、真の目的である天皇制の護持には触れられていない。
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最終更新:2025/12/09(火) 13:00
最終更新:2025/12/09(火) 12:00
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