富田長繁 単語


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トダナガシゲ

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「富田長繁」(とだ・ながしげ 1551?~1574)とは、戦国時代の武将である。

その狂人ぶりからネット界隈では越前の狂犬との渾名で呼ばれることも。

概要

織田家に寝返る

朝倉家臣、富田吉順の嫡子として越前に生まれる。長繁の富田家は元は出雲尼子家の庶流であったという。

朝倉家臣時代の事績は殆ど無く、記録に登場するのは元亀元年(1570年)に織田信長の越前侵攻に対して1000騎で哨戒に出たという記述のみである。

元亀3年(1572年)、織田信長に攻められ窮地に立たされた浅井家の小谷城救援の兵を挙げた朝倉義景の軍に参加していたが、対陣中に前波吉継から1日遅れで毛屋猪介・戸田与次郎らと共に織田家へ投降し、朝倉家を見限った。同年の8月には早速、木下秀吉の守る虎御前山を救援し、攻めて来た浅井井頼を破るという功を立てた。

天正元年(1573年)8月に朝倉家が滅亡すると、越前府中と龍門寺城を与えられ、若くして一城を預かる将となる。この年9月には二度目の長島一向一揆討伐に参加し、大垣に撤退する信長本隊を奇襲してきた一揆勢に対して殿として残り、林通政らと奮戦。この時、長繁配下の毛屋猪介が目覚ましい働きをしたことは信長公記にも書かれている。

暴走する野心

しかし、長繁は一城の主となったにも関わらず、府中を与えられて以降に恩賞の一つも無い事に不満を持っていた。更には投降するのが一日早かっただけで大した働きもないくせに自分より目上の越前守護になっていた前波吉継を妬み、また吉継も若輩の長繁を侮り「長繁の領地は過分」とわざわざ上申するなどしていたので犬猿の仲であった。

天正2年(1574年)1月18日、長繁は前波の悪政に不満を持っている越前の長百姓たちを焚き付け、土一揆を起こさせる。総勢3万以上となった長繁率いる土一揆は前波の寄る一乗谷に殺到し、あえなく前波は討死。逃げようとしていた前波の家族も残らず捕縛され皆殺しにされた。

長繁は勢いそのままに北ノ庄の織田家の代官所を襲撃。これには織田家と表立った抗争になることを恐れた朝倉景健が仲介に入って説得し、結局のところ代官たちは助命され無傷で織田領へと帰された。土一揆を利用した長繁はわずか数日で越前の最大勢力へと成り上がったのである。

だが、まだ血気に逸る若者は止まらない。1月24日には魚住景固とその次男を朝食へと招くと、その席で突如として2人を斬殺すると即日兵を挙げ、魚住家の本拠となっていた鳥羽野城を強襲し魚住一族を滅ぼし所領を奪い取ってしまった。この事件で仁者として比較的評判が良かった魚住を私欲で滅ぼした事は人心の離反を招き、また旧朝倉家臣は長繁を恐れ、誰も近寄らなくなり孤立し始める。

長繁も減税策などで人心の確保に務めたのだが、「あいつは織田に弟を人質に送って越前守護の座を要求しているらしい」という風聞が国内で立つなど悪い流れを抑えることは出来ず、織田政権による重税からの脱却を目指した土一揆はやがて邪魔になった長繁の排除を目論む。

窮鼠猫を噛み殺す

やがて、越前の土一揆は専修寺賢会らの工作によって加賀一向一揆と結びつき、ここに越前一向一揆が起こる。加賀の坊官、下間頼照・七里頼周・杉浦玄当らが指揮官として越前入りし、雪だるま式に膨れ上がった一揆衆の数は長繁の本拠地府中に迫った頃にはおおよそ14万という大軍になっていた。

2月13日には長繁の腹心として活躍してきた毛屋猪介も討死し、北ノ庄を失陥。2月14日にもなると長繁の本拠である府中も徐々に包囲され始める。この時、長繁の動かせる直轄の兵はたったの700人しか居なくなっていた。

2月16日早朝、進退極まった長繁は「敵が大軍であるからと言って、目の前に置いてただ徒に時を送るのは無念の次第だ。今日、俺が出て行って打散らす。」と豪語して出馬。真冬の日野川を渡って帆山河原の一揆勢2万を強襲し、宣言通り壊滅させて見せた。この時、富田軍は敗走する一揆勢を2、3里も執拗に追い立て、2000~3000の頸を挙げて堂々府中へと帰還したという。

ここに於いて俄然勢いを取り戻した長繁は、同じ真宗でも本願寺とは犬猿の仲である高田派や越前三門徒派らに「永代3000石」という破格の条件を提示して仲間に引き込み、更に府中の住民らも長繁の軍勢に参加を申し出始め、6500人が新たに加わった。・・・まぁ、長繁が府中を放棄すれば守る人間がいないのでノーという選択肢は無かっただけなのかもしれないが。

今樊噲

長繁の軍に休みはない。帆山河原の大勝利の翌2月17日には全軍挙げて北ノ庄の奪還を目指して出陣し、北上していった。対して北ノ庄からは七里頼周率いる5万ほどの一揆勢が南下しており、富田軍おおよそ7000はこれと激突した。どう考えても勝ち目の無さそうなこの戦で長繁の軍は前回以上の圧倒的強さを見せる。

「富田モトヨリ堅ヲ破ル事、樊噲ガ勇ニモ過タリ。四方ヲ払テ、八面ニアタリ、 頃刻ニ変化シテ、百般戦フ程ニ、又一揆等許多討レテ、蠅ヲ払如逃去ケリ。」(越州軍記)

・・・とにかく富田軍(主に長繁の人外じみた強さ)に恐れおののいた七里軍は敗走してしまったらしい。もはや敵なしかと思われたが、ここで長繁は一度兵を南に返し、同じ日の夕方に一連の戦の動静を見守っているだけで兵を動かさなかった朝倉景健・朝倉景胤らを敵認定し、後顧の憂いを断つ為に襲いかかる。長繁はここでも命知らずの夜襲を行い、「葉武者には目もくれず景健の陣所に討入った」がこの日の内に決着は付かず、長繁らは荒木兄弟の頸を取るとひとまず引き上げていった。

そして翌2月18日早朝に長繁は決着を付けんと全軍に突撃を命じたが、ここで丸3日に及ぶめちゃくちゃな強行軍に嫌気が差したのか、それとも何を目的に長繁が戦っているのか疑問が生まれたのか家臣の小林吉隆に背後より銃撃され死亡した。享年24。小林は長繁の頸を持って一揆に投降し、大将不在で取り残された富田軍はそれまでの精強さが嘘のように四散した。

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関連項目

  • 朝倉義景
  • 前波吉継
  • 魚住景固
  • 戦国時代の人物の一覧

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