寺原隼人(てらはら はやと)とは、福岡ソフトバンクホークス所属のプロ野球選手(投手)である。背番号11。
|
||||||||||||||||||||||||||
宮崎県宮崎市出身。2001年の甲子園大会に日南学園のエースとして出場。当時の最速記録154km/hマークするなど大活躍する。また、当時の宮崎県内では同学年の神内靖(延岡学園)と並ぶ評判の投手でライバル関係を築いていた。
ちなみに、日南学園時代の同期生である井手正太郎は3番バッターとして寺原とともに甲子園ベスト8に貢献している。
その年のドラフトで中日、巨人、横浜などとの競合の末に福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)が交渉権を獲得、入団する。
ちなみに、抽選に外れた三球団が指名した選手は中日が前田章宏、巨人が真田裕貴、横浜が秦裕二で、後に前田以外は全員横浜ベイスターズに所属することとなる。
ルーキーで6勝、翌年も7勝と活躍するも、その後2年間勝利を挙げることは出来ず。
2006年にシーズン初登板、初先発で965日ぶりの勝利を挙げ、復活を遂げる。プレーオフでも好投を見せ翌年のブレイクを予感させるが、そのオフに多村仁との交換トレードで横浜ベイスターズに移籍。
2007年は開幕からローテ入りし、5月10日には移籍後初の完投勝利を記録(実は相手のヤクルトは寺原の贔屓球団だったりする)。最終的には規定投球回到達、初の二ケタ勝利など自身最高の成績を残す。
そして、2008年は三浦大輔の出遅れにより開幕投手を務め、先発ローテの一角として定着……のはずが、チーム事情から抑えに転向。しかし、最下位を独走していたこの年のベイスターズでは登板機会そのものがなかなか巡ってこず、いつしか佐々木主浩の現役時代の称号にかけて「ハマのヒ魔人」と呼ばれるようになってしまった。
2009年は前年の抑え転向の影響もあったのか、故障もあって2勝7敗と不本意な結果に終わった。
2010年、気分転換で画数のいいらしい「寺原早人」に登録名を変更した。が、名前の通り早々に故障で戦線離脱。同年オフ、高宮和也と共に山本省吾、喜田剛との2対2の交換トレードでオリックス・バファローズに移籍した。
オリックス1年目の2011年は登録名を本名に戻す。開幕からほぼシーズンを通して先発ローテを守り、4年ぶりの二桁勝利を挙げるなど復活を果たした。最終的に25試合に登板して12勝10敗、防御率3.06。チーム最多の7完投、3完封をマークした。
2012年は開幕3戦目で新垣渚に完封負けし、その後すぐ離脱。5月に復帰してからはローテで投げたが、6勝8敗で防御率3.92とピリッとしない投球が続き、8月に再び戦線離脱してシーズンを終えた。オフ、FA宣言して古巣の福岡ソフトバンクホークスに復帰。背番号11に。
実は『ドカベン プロ野球編』の裏表紙を飾ったこともある。
暴投王こと新垣渚とは師弟関係(新垣が兄貴分)で、寺原のトレード移籍で一番ショックを受けたのも新垣である。寺原が移籍した2007年以降新垣は成績が低迷しているが、因果関係は定かではない。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/09(火) 20:00
最終更新:2025/12/09(火) 20:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。