対馬丸 単語


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ツシママル

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対馬丸とは、船舶の名称である。この名を使用した船舶は複数存在する。

しかしここでは、日本郵船保有の貨物船であり、のちに大日本帝国陸軍に徴用されて大東亜戦争中に疎開する児童を乗せて沖縄から本土へ向かう途中で撃沈された、悲劇の船として有名な船舶について記載する。

概要

ヨーロッパ航路向けの貨客船6隻を整備するため、日本郵船がイギリスに発注。そのうちの1隻が対馬丸であった。グラスゴー造船所で666番船として起工し、1914年9月8日に進水。12月22日に竣工を果たし、予定通りヨーロッパ航路に就役した。T型貨物船に分類され、排水量は6754トン。

しかし次第に戦争の足音が聞こえてきた1941年9月21日、優秀船舶だった対馬丸は帝國陸軍に徴用され、大東亜戦争開戦劈頭の南方作戦に投入された。作戦が一段落した1942年5月5日に徴用を解除されたが、6月12日に船舶運営会が徴用。今度は物資の輸送に使用される事になる。

1943年6月5日、高雄から六連へ向かっている道中に米潜水艦2隻に捕捉される。シーウルフから雷撃され、発射した魚雷1発が命中するも不発に終わる。10月28日、再び陸軍に徴用。輸送任務に従事する。

対馬丸事件

対馬丸が悲劇の船と呼ばれているのは、この対馬丸事件による所が大きい。

1944年8月22日、沖縄から疎開する児童約800名やその家族、引率の先生を乗せた対馬丸は米潜ボーフィンに雷撃され沈没。撃沈したボーフィン側は、対馬丸に児童が乗っていた事を知らず、「物資を積んだ輸送船を撃沈した」程度の認識しか無かったという。

乗員・乗客合わせて約1700名中1484名が死亡、生き残った児童は59名に過ぎなかったとも言われる。ただし正確な乗客数や正確な犠牲者数が判明していないため、これらの人数については不確かな数字であるという(「対馬丸記念館」公式サイト内「対馬丸に関する基礎データ」ページより)。

これを受けて日本政府は米国に抗議した他、緘口令を敷いて事態の発覚を防いだ。しかし本土から便りが届かない等の理由で一気に撃沈の噂が広がったとか。

経緯

1944年7月7日、サイパン島守備隊が玉砕し、マリアナ諸島は陥落。軍民ともに次に狙われるのは沖縄だと直感した。このため軍部は沖縄に多くの部隊を送った。同時に政府は沖縄県の泉守紀知事に「非戦闘員約10万人を本土ないし台湾へ疎開させよ」と指示する。
兵員や物資を下ろし、空になった輸送船は帰路に女性や児童、老人を乗せて本土へ帰還。徐々に疎開者が運ばれていった。しかし沖縄県民は疎開に消極的だった事と、輸送に軍艦を使わない事に対する不安から、作業は遅々として進まなかった。軍部は隣組や学校長を通して半ば強制的に市民を疎開させたが、それでも数は少なかった。本土(未知の土地)に対する不安と、道中に敵の潜水艦が跋扈している噂、兵隊が沢山いる安心感が疎開を消極的にしたとされている。

対馬丸は支那派遣軍から沖縄へ転用する第62師団の兵員を運ぶため、上海外港のウースンを8月16日に出発。対馬丸には兵員3339名、軍馬49頭が乗せられていた。波が高い南シナ海を突破し、8月19日に那覇へ入港。8月21日午前、対馬丸は那覇の港に停泊していた。対馬丸の他には輸送船暁空(ぎょうくう)丸、和浦丸が停泊。少し離れたところに砲艦宇治と駆逐艦蓮が停泊していた。暁部隊の兵士や警官が汗だくになって、疎開者の荷物を運び入れる。疎開者は港の一角に集合、出発の時を待った。
出発の訓示として、那覇市長は次のように述べた。

「今日皆さんが乗っていかれる船は、みな憎い英国からの分捕り品(!?)で、これまでにも幾度か危険な目をくぐり抜けてきた運の強い船であります。」(分捕り品は暁空丸を指しているとも。)

那覇国民学校の学童や付き添い人など、合計1661名が対馬丸に乗船。長崎までの船旅である。午後6時35分頃、三隻の輸送船と護衛を務める宇治と蓮が出港。5隻はゆっくりと沖縄の地を離れた。ちょうど小雨が降り始めた。船団は最も遅い対馬丸に速力を合わせた。対馬丸の船長は西沢武雄といい、48歳のベテランであった。だが船長室で西沢船長と輸送隊指揮官が意見を対立させていた。西沢船長は「対馬丸は老朽船かつトカラ近海の航海は危険。潜水艦に狙われたら一溜まりも無いので複雑なジグザク航行を採用したい」と主張。しかし指揮官側は「それでは到着が遅れる」と具申を跳ね除け、ほとんど直線に近いカーブを描く之字運動C法を採った。

船内には約800名(741名とも)の児童が乗っていた。子供らは暑さ故に裸ないし下着で走り回り、まるで旅行気分のようにはしゃいでいたという。陽は沈み、辺りは暗闇に包まれた。この闇夜の時間帯こそ、最も危険な時間帯だった。だが、一晩明かすことが出来れば本土はもう目の前である。誰もが平穏な航海になる事を祈った。だが、鈍足な対馬丸は船団から落伍しつつあり、最も狙われやすい位置にいた。しんがりについていた駆逐艦蓮が対馬丸に付き添った。

対馬丸の船倉を急ごしらえの居住区にしており、窓が1つも無かった。二段ベッドに疎開者や児童が詰め込まれ、すし詰め状態だった。沖縄本島の南東500kmに台風があったが、小型で勢力も弱かった事から荒天に敢えて荒天に突っ込んだ(荒天は敵機から逃れるのに有用だった)。船団は単縦陣を取り、潜水艦を警戒して之字(ジグザグ)運動を取る。

午後10時12分。児童が寝静まった頃、対馬丸の左舷に5本の白い線が伸びてきた。双眼鏡でこれを発見した見張り員が伝声管に向かって叫び、回避運動を取ろうとしたが時既に遅し。1本目と2本目はすり抜けていったが、3本目が二番船倉に直撃。ちょうど児童たちが寝ている真下だった。
引率の先生たちは事態を悟り、児童を起こす。なかなか起きない子は蹴飛ばされたという。さらに2本の魚雷を喰らい、機関停止。やがて総員退船命令が下り、疎開者たちは暗闇の海へと飛び込む。船体は右舷へ傾き、傾斜は10度に達した。あちこちで悲鳴が上がり、船内は地獄絵図と化す。生存者はボートやイカダに身を寄せたが、中には泳ぎに自信のある者もいた。彼らは泳いで付近の島へ行こうとしたが、例外なく波に飲まれて溺死した。どこからか「海ゆかば」の歌声が聞こえてきたという。
対馬丸の船長・西沢武雄以下24名と学童682名、一般疎開者802名、船砲隊員21名が船とともに沈んだ。

砲艦宇治の艦橋では、対馬丸の沈没を認めた。宇治は沈没地点を中心に遊弋し、更なる雷撃を防ぐのが精一杯だった。暁空丸の事務長室からも火柱が見えた。間もなくして、すうっと火は消えた。この事は子供たちには伏せられた。

対馬丸の生存者は漂流を強いられた。護衛の艦艇は残った船団を守って、足早に去ってしまった。暗闇の中、言い知れぬ恐怖に襲われる生存者たち。児童の親が持たせてくれた、僅かばかりの食料が頼りだった。サメに襲われて死亡する者、悪石島に漂着した者、力尽きて水底に沈んだ者、それぞれが過酷な運命を辿っていった。
対馬丸を残して突っ走っていた護衛艦艇からの連絡で、ただちに漁船団や軍の航空機が救助に向かった。8月23日午後3時、最初の漁船が救助に現れた。沖縄からも漁船が派遣されたが、台風が接近していたためすぐには動けず、到着は翌24日になった。波が高かったにも関わらず、彼らの献身的な救助により少なくない数の疎開者、兵士、乗組員が助かった。ただしその具体的な人数については、正確な記録が無いために不明とされる(「対馬丸記念館」公式サイト内「対馬丸に関する基礎データ」ページより)。

ちなみに当事者のボーフィンは戦争を生き残り、真珠湾攻撃の復讐者として記念艦となっている。対馬丸は赤十字等の塗装が無く、のちの阿波丸と違って国際法上は撃沈しても問題なかった。実際、ボーフィンは輸送船撃沈としか認識しなかった。

1944年には沖縄関係の船舶が16隻沈められており、対馬丸はその1隻だった。
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対馬丸の一件もあり、沖縄県民の疎開は相変わらず進まなかったが、1944年10月10日に那覇大空襲(十・十空襲)を受けた事で一変。もはや沖縄は安全な場所ではなくなり、県民が我先に疎開しようとしたため、大日本帝国海軍はいよいよ軍艦を輸送任務に投入した。

戦後

昭和28年、慰霊塔「小桜の搭」が建立される。

平成9年、海洋科学技術センターが深海調査研究船「かいれい」と同船を母船とする深海探査機「かいこう」を使用して悪石島沖海底捜索を行い、海底に沈んでいる対馬丸の残骸が発見された。この報を受けて当時の天皇は大きく心を動かし「疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見出だされけり」と御製を詠んだと言われる。引上げについても検討されたが、船体の腐食が激しいため断念された。

平成16年、対馬丸事件を風化させないよう、沖縄県那覇市に対馬丸記念館が設立された。当時の資料等が保存されている。

平成29年、鹿児島県奄美大島の宇検村に慰霊碑が完成。宇検村などの奄美大島各地の海岸には生存者21名と遺体105体が漂着していた。

平成30年、広島県広島市南区にある比治山陸軍墓地に立つ船舶砲兵部隊慰霊碑前で、対馬丸事件の慰霊祭が広島において初めて催された。対馬丸には広島を拠点としていた船舶砲兵も数十人乗船していた縁で、この慰霊碑の横にある銘板に「対馬丸乗船 沖縄疎開学童之霊」の文字が刻まれているため。

題材とした創作作品

1976年、対馬丸事件を題材にした少女漫画『ああ七島灘に眠る友よ!-疎開船対馬丸の悲劇-』が単行本化されている。

対馬丸 さようなら沖縄

1982年には沖縄県出身の小説家「大城立裕」によるこの対馬丸事件を題材とした小説『対馬丸』が発表された。

さらに同年、この小説を原作としたアニメ映画『対馬丸 さようなら沖縄』も制作された。劇場上映用やテレビ放送用ではなく平和教育目的の巡回上映用作品だったようだ。文部省選定作品とされたこともあって、その後日本各地で上映されていった。このアニメ映画が沖縄以外におけるこの事件の知名度を増したとも言われる。現在(2010年代時点)でも時折、各地で上映会などが開かれているようだ。

この作品は監督:小林治、作画監督:芝山努ら、主人公の声優:田中真弓、などとスタッフ・キャスト陣に実力者が並んでおり、作品クオリティは高く秀作であるとのこと。しかしそれだけに、事件の凄惨さの描写も鮮烈なものとなっているらしく、一部の視聴者からは「トラウマアニメ」として挙げる声もあるらしい。

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関連項目

  • 大東亜戦争 / 太平洋戦争 / 第二次世界大戦
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