小林正人(こばやし まさと)とは、中日ドラゴンズに所属するコバマサである。登録名は「小林正」。左投左打、背番号69。
同姓同名の三重県会議員とか死刑囚とかもいるが本項では野球選手について扱う。
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1980年8月21日生まれ、生まれ、群馬県嬬恋村出身。地味に松坂世代。
桐生第一高校から東海大学に進学、大学では久保裕也の控えだったが、4年秋のリーグで4勝を挙げて注目され、2002年のドラフト6巡目で中日ドラゴンズに入団。ちなみに入団当時は本家コバマサと同じ背番号30だった。
3年目の2005年、プロ初登板で桧山進次郎に頭部死球を与えて一発退場という鮮烈デビューを飾る。
2006年からサイドスローに転向、左殺しのワンポイントリリーフとして一軍で出番を得るようになる。が、制球力に難があったため、ワンポイントフォアボーラー・ワンポイントデッドボーラーとなることもしばしばであった。特に2006年の日本シリーズでは、第3戦で小笠原道大へのワンポイントとして登板するも1球で死球を与えて降板、そのまま登録を抹消され「何しに出てきた」と言われる羽目に。
2008年は自己最多の46試合に登板、10ホールドを挙げたが相変わらず四死球が多く防御率も4点台だった。2009年からは制球力が向上を見せており、2009年は32試合に登板して防御率0.84、2010年も36試合で防御率2.14と好成績を残す。
2011年は開幕一軍を掴むと、ヒットも四球も許さない投球を続け、6月11日の楽天戦で、開幕から足かけ17試合で9イニング被安打0、四死球2のノーヒットノーランを達成(が、達成した次の打者にヒットを打たれ、前の投手の出したランナーを帰してしまった)。続く6月18日のオリックス戦で初失点を喫したが、その後も左キラーのワンポイントリリーフとして好投を続け、最終的に自己最多の58試合に登板、5勝0敗18ホールド、防御率0.87。対左の被打率は驚異の.092という左殺しぶりで、リーグ優勝に大きく貢献した。
2012年からは山本昌にあやかったのか、登録名を「小林正」に変更。41試合に登板し2勝0敗14ホールド、防御率1.31とこの年もワンポイントとして好成績を残した。
一軍デビュー当時のある試合で、ブルペンで岩瀬仁紀が肩を作っているところに試合経過を伝える際、「レフトフライ」と言おうとして「レフトふりゃあ」と言ってしまい、次の投手が肩を作っているときは笑ってはいけないというルールがあったため、ブルペンの空気を凍り付かせてしまった。
その場にいた落合英二に「岩瀬のときに言っちゃあかん、お前明日一軍に居ないぞ」と言われ、翌日本当に二軍に落とされてしまう。もっとも、小林の二軍落ちはもともと決まっていたことだったのだが、小林本人は「レフトふりゃあ」で落とされたと落ち込んだという。
さらにその話が元中日で当時西武に所属していた宮越徹を経由して松坂大輔の耳にまで届き、「中日の投手は『レフトふりゃあ』と言っただけで二軍に落ちる」と伝説がボストンまで一人歩きしたとかなんとか。
ニコニコには残念ながら無いので、YouTubeの「レフトふりゃあ」伝説の動画をお楽しみください。
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最終更新:2025/12/09(火) 21:00
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