岡田以蔵とは、幕末の土佐藩士、幕末四大人斬りの一人である。通称「人斬り以蔵」。諱は岡田宜振(よしふる、たかのぶ、のぶたつ)
天保9年(1838年)、土佐郷士・岡田義平の長男として生まれる。
岡田家は郷士に加えて足軽という二重の身分を有しており、長男の以蔵が足軽、弟の啓吉が郷士の身分を継いでいる。長男の以蔵に士分ではない足軽を継がせた理由については、藩から隔離された身分である郷士よりも、藩の末端として繋がりのある足軽のほうが土佐藩内では実質的に格上であるという、藩固有の事情があったためとされる。
はじめ独学で剣術を学びながら嘉永6年(1853年)に徳弘塾に入門し西洋砲術を学んでいる。安政元年(1854年)、18歳の頃武市瑞山の剣術道場に通い始め、道場剣術と異なる我流の剣術で、武市や道場に通う郷士たちを瞠目させる。
安政3年(1856年)、武市の江戸出府と同時期に江戸に赴き、武市が師範を務める桃井道場に入門。「撃剣矯捷(きょうしょう)なること隼(はやぶさ)の如し」と称えられるが、一方で学問や世事に興味がなかったらしく、剣術が優れていたにも関わらず免許皆伝には至っていない。
なお、この時期に千葉道場で修行中だった坂本龍馬と知り合っている。
万延元年(1860年)、江戸から戻った武市がもたらした桜田門外の変の情報により、郷士たちは俄に色めき立ち、郷士による政治活動の端緒となる。
同年、岡田は武市に伴われて中国、九州地方を遊歴し、剣術修行を続ける。
文久2年(1862年)、ちょうど土佐藩参政・吉田東洋が土佐勤王党の刺客によって暗殺された時期に帰国。直後に土佐勤王党に加盟しているが、武市が山内容堂に提出した名簿には名前が含まれていなかった。(吉田暗殺に関わった那須信吾らも同様)
この後上京した岡田は、吉田暗殺の下手人を捜索していた土佐藩士の井上佐一郎という人物を殺害。以後、武市にとって邪魔な存在と見るや、「人斬り新兵衛」こと田中新兵衛の他、勤王党員と共に次々と暗殺を繰り返していった。
知られている主だった犠牲者は以下の通り。
この他にも「生き晒し」という、文字通り生きたまま晒し者にするという行為も行っている。[2]
勤王党員として多くの暗殺に関わった岡田だったが、文久3年(1863年)1月に何を思ったのか勝海舟の門下生となっている。[3]これは坂本龍馬の勧めと言われており、3月には勝の護衛を務めている。後年勝が語っている有名なエピソードはこの時のものである。
その夜は市中を歩いていたら、ちょうど寺町通りで三人の壮士がいきなりおれの前へ現われて、ものをもいわず切りつけた。
驚いておれは後へ避けたところが、おれの側にいた土州の岡田以蔵が忽ち長刀を引き抜いて、一人の壮士をまっ二つに斬った。
「弱虫どもが何をするか」と一喝したので、あとの二人はその勢いに辟易して、どこともなく逃げていった。
おれもやっとのことで虎の口を遁れたが、なにぶん岡田の早業には感心したよ。
後日、おれは岡田に向かって、「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動は改めたがよかろう」と忠告したら、「先生。それでもあのとき私がいなかったら、先生の首は既に飛んでしまっていましょう」といったが、これにはおれも一言もなかったよ。
(勝海舟『氷川清話』)
中浜万次郎の子孫によると、この後勝の推薦により中浜の護衛も務め、中浜が4人の刺客に襲撃された時も2人を斬り捨てて守り抜いたと言われる。[4]
文久3年8月18日の政変によって土佐勤王党はじめ尊王攘夷派の京都における勢力は大幅に後退し、武市ら勤王党員も土佐藩によって捕縛拘禁される中、岡田は1人逃れ、いつの間にか坂本や勝の元も離れていった。
行き場を失い、浮浪者同然の状態に落ちぶれて京都市中を彷徨っていたところを強盗傷害の容疑で逮捕され、はじめ土井鉄蔵と偽名を名乗っていたが、問い合わせを受けた土佐藩庁が身柄を拘束、強制送還された。
岡田が捕縛され、土佐に送還された事を知った武市は以下のように罵倒したという。
「あのような阿呆は早く死んでくればよけれど、あまあま御国へ戻り、誠に言いようもなき奴。
さぞやさぞや親が嘆くろうと思い候」
「以蔵の面の皮の厚きこと(中略)実にあんまりな奴にて候」
「以蔵は若年の時より世話いたし候者なれど、とかく心行不正にて度々義絶のこと思えど親より度々頼まれ候ゆえ、唯々親を気の毒に存じ、そのままにておりしなり。
しかるに本間(精一郎)の事、その時分にいたりては最早さっぱり見捨ておりしなり」
「以蔵は不義第一の大虚言の者」
「以蔵がような者は誠に日本一の泣きみそと思い候」
入牢後、拷問に耐え切れずこれまで関わった事件について自供を始めてしまったため、更なる自白を恐れた武市が毒殺を試みたと言われている。[5]
岡田やその他党員の自供の結果、武市、岡田その他多数の党員が切腹、斬首を言い渡された。
慶応元年(1865年)5月11日、武市が切腹する1ヶ月前に斬首。享年27歳。
辞世の句は『君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄み渡る空』[6]
わしは上を見すぎたのう。
天ら見ず山を見ちょったらよかったがじゃのう。
犬じゃと言われて人になりたがり、人になれれば武士を望み…
けんど、誰に何を言われようとわしはそもそも人やったがじゃ。
天まで昇れるはずのない人、やったがじゃ。
ただ地に足をつけて、山を見ちょったらよかったがじゃのう。
あほじゃのうわしは。
犬のごとくあほじゃのう。
山にはあんなに光のごとく黄色い花が満ちちょったに。
山は決して動く事なく黄色い花を満たしちょったに。
のう!おてんとう様頼むき!
わしの首が宙に舞って、真っ赤な血がふきだしたら この黄色い花で覆い隠しちゃってくれ。
赤い血も黒い土も、この先の世の中が光で満ち溢れちゅうがのごとく この黄色い花で覆い隠しちゃってくれ!
(劇団新感線『IZO』)
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最終更新:2024/04/24(水) 00:00
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