川越英隆(かわごえ ひでたか)とは、オリックス・ブルーウェーブ、オリックス・バファローズ、千葉ロッテマリーンズに所属した元プロ野球選手(投手)。
プロ入り前は日産自動車に所属しており、都市対抗野球で後のチームメイトとなる後藤光尊率いる川崎製鉄千葉を下し優勝し、最優秀選手に選ばれるなど活躍。
1998年にドラフト2位でオリックス・ブルーウェーブに入団。
ルーキーイヤーの1999年から活躍し、11勝8完投、防御率2.85と好成績を修めるが、同じくルーキーの怪物松坂大輔が16勝を挙げ、新人王は獲得できなかった。
翌2000年にも8勝を挙げるが終盤に故障し、翌年以降はスランプに陥る。
特に、2002年の5月から2003年までに自身15連敗を喫するなど全く勝てなくなってしまう。
しかし、2004年に当時の伊原監督に試合中に公開説教(後述)を食らってからは息を吹き返し、この年7勝を挙げて復活の兆しを見せた。シーズンオフにチームが合併し、初代選手会長に選ばれる。
2005年から2007年まで開幕投手を務めるなど、首脳陣からもエースとして期待された。
2006年にはルーキーイヤーに次ぐ安定感を誇ったが、打線の不調と中継ぎに勝ちを消されたことにより、惜しくも9勝止まり。7年ぶりの2ケタ勝利にはならなかったが、防御率も3.16と好数字を残した。
2007年は開幕投手として斉藤和巳と投げあったが、リードを貰いながらも勝利を挙げられず、またこの年リーグトップの被本塁打を記録。「柵越」と呼ばれてしまう。
2008年からは金子千尋や小松聖といった先発投手が頭角を表し、中継ぎとしての復活。チームのAクラス入りに貢献した。先発時代の高いスタミナでブルペンを支えていたが、2009年は不調に終わりまさかの戦力外通告。直後の日本ハム戦で登板した後に、チームメイトから胴上げを受け、11年間所属したオリックスのユニホームを脱いだ。
その約1ヶ月半後に、千葉ロッテマリーンズが獲得が発表された。2010年は開幕ローテ6番手に滑り込み、移籍後初登板を勝利で飾ったが、故障で戦線離脱。復帰後は中継ぎとして登板したが満足いく投球はできず、シーズン3勝に終わった。
2011年は主にビハインドでのリリーフ起用となり、18試合で防御率1.37とそれなりの結果は残す。シーズン終盤、一部メディアで引退報道が出たのをブログで否定する一幕があったが、結局オフに現役を引退。
2012年からは千葉ロッテマリーンズの二軍投手コーチを務める。
球速はMAX150km/hも記録している。晩年は140km/h前後だった。変化球は主にスライダー、カットボール、カーブ、フォークなど。シンカーを投げていた時期もあった。
2004年のある試合で、不甲斐ない投球に痺れを切らした当時の伊原春樹監督に、試合中にも関わらず公開説教を食らった。このシーンは好・珍プレーでも放送された。
ネタでは主に同じく小柄な本柳和也と一緒に描かれていたり、先発で170試合投げているのにも関わらず中継ぎを含めて51勝しか挙げていない勝ち運の無さをよく扱われている。
身長が公称174cmだが、それよりも低い・・おっと、こんな時間に誰か来たようだ。
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最終更新:2024/04/25(木) 08:00
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