後醍醐天皇 単語


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後醍醐天皇とは日本の第96代天皇である。
鎌倉幕府と室町幕府の間で一時的に天皇親政を成し遂げ、また南北朝分裂時代の引き金を引いた天皇としても知られる。

概要

1288年に後宇多天皇の第2皇子として誕生。

当時、朝廷は後深草天皇系の持明院統と亀山天皇系の大覚寺統で派閥争いが生じており、鎌倉幕府の介入でお互いの天皇が交互に即位する「両統迭立」が取られていた。

大覚寺統の後醍醐天皇はこの両統迭立に嫌気が刺した上、承久の乱以来、朝廷にも盛んに口出しする幕府にも強く不信を抱き、天皇を中心とした平安時代の体制を時勢も顧みず取り戻したいと考えるに至る。

1324年、倒幕計画を立てるが幕府の監査機関である六波羅探題に知られ失敗(正中の変)。
1331年、再度計画を立案、だがまたしても六波羅探題に知られ笠置山に引きこもる。護良親王、楠木正成をここで味方につけて挙兵するがやはり失敗。今度は隠岐へ追放されるに至った(元弘の乱)。

しかし北条氏の専横が続き、政治的にも腐敗していた鎌倉幕府に嫌気が指していたものは多く、楠木正成の他にも足利尊氏、新田義貞などが幕府に反旗を翻し、1333年に六波羅探題と鎌倉が陥落、鎌倉幕府は崩壊した。

京都に戻った後醍醐天皇は「建武の新政」として天皇中心の理想政治を打ち出すが、実際に働いた武士よりも公家への恩賞を重視したり、当時最大の課題であった土地関係への訴訟に満足に対応できなかったこと、理想重視で現実を見据えた施策が取れなかったことから、武士のみならず民衆からの支持も失い、遂に足利尊氏に見限られることとなる。

足利尊氏との戦いの中で楠木正成と新田義貞を失い、尊氏は持明院統の光明天皇を即位させ、後醍醐天皇は吉野へ逃亡。建武の新政は2年余りで終了した。そして尊氏は光明天皇から征夷大将軍に命じられ、京都に幕府を開くこととなる(室町幕府)、。
しかし、後醍醐天皇は吉野逃亡の前に光明天皇に渡した「三種の神器」は偽物であると後に主張し、吉野において自身が正統な天皇であると宣言。ここに京都(北朝持明院統)と吉野(南朝大覚寺統)にそれぞれ別の天皇が在位する「南北朝時代」が到来した。

後醍醐天皇は新幕府に抵抗し、何とか京都に戻りたいと願うが果たせず、後村上天皇に譲位し逝去した。南北朝時代はその後60年近く続くが、最終的に持明院統の北朝に統一され、彼の血筋の天皇は途絶えている。

後世の評価

鎌倉幕府を滅ぼしたものの、自らの現実離れした政策で武士・民衆の支持を失ったことで尊氏らに反逆されたため、「不徳の君」の代表的な例として語られることが多い。

しかしながら、明治時代中期から第二次大戦集結までは、武家政権の中で一時的にも皇威を回復させたこと、更に南朝が分裂時代の正統皇朝と位置づけられたため、「建武の中興」を果たした天皇として大きく評価された。

第二次大戦後は、江戸時代以前の無能君主の位置づけに戻っている。

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最終更新:2025/12/10(水) 04:00

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