徳川頼宣(1602~1671)とは、江戸時代前期に活躍した大名である。
徳川家康と側室のお万の方(養珠院)の間に生まれた10男。御三家の一つ紀伊徳川家の初代。幼名は長福丸で、頼将→頼信→頼宣となっていく。同母兄に武田信吉、同母弟に徳川頼房がいる。
慶長7年(1602年)に伏見城で生まれる。さらに翌慶長8年(1603年)には、武田信吉の遺領であった常陸国水戸城主となり、20万石を与えられた。さらに慶長9年(1604年)には常陸国久慈郡保内・下野国那須郡武芝の5万石を加増された。だが、当たり前といえば当たり前なのだがまだ元服すらしていない幼少期に水戸に赴くこともなく、駿府の徳川家康のもとで育てられ続けた。この頃の領地経営は、武田信吉の家臣であった芦沢信重が財務を行い、村々の支配は幕府の代官頭であった伊奈忠次、彦坂元正などがあたっていった。『徳川実記』によると徳川家康によって厳しく鍛錬されていったという。
慶長11年(1606年)に元服。従四位下に叙されて常陸介を名乗る。慶長14年(1609年)に駿河国・遠江国および東三河の50万石を与えられてて転封し、遠江国横須賀城を居城とした。慶長16年(1611年)に従三位参議左近衛権中将となり、遠江宰相中将と称する(参議は後に辞職している)。
元和2年(1616年)に駿府城に移封されて、駿河宰相を称する。元和3年(1617年)に権中納言に任じられると駿河中納言を名乗り、元和5年(1619年)に紀伊・伊勢55万5千石に移され、駿河には松平忠長(後の徳川忠長)が入る。この理由として、大坂の陣後の畿内の動向に対処するもの、大坂・江戸間の海上交通を掌握するためのもの、吉野・熊野・伊勢を視野に入れたもの、といったように諸説あげられている。
こうしてようやく誕生した紀伊徳川家であるが、前領主の浅野氏によって既に基礎が築かれていたため、徳川頼宣はその統治方法をほぼ踏襲し、その上で各種の法整備に移っていった。一方で地士制度を用いて国人を懐柔していき、領知支配を進めていく。寛永3年(1626年)に後水尾天皇の二条城行幸に際し、従二位大納言に叙任。これは兄・徳川義直や甥・徳川忠長と同格で、弟・徳川頼房以下他の大名と明確な差異が設けられた。
慶安4年(1651年)の慶安の変では首謀者の由比正雪と関わっていた嫌疑がかけられるも、証拠の書状が偽造で疑いは晴れたようだ。寛文7年(1667年)に病気のため隠居して、嫡男・徳川光貞に家督を譲る。そのまま寛文11年(1671年)に亡くなり、海士郡浜中村の長保寺に葬られた。
「信長の野望」(PC)シリーズにおける徳川頼宣の能力一覧。
徳川家康の息子のため稀に出る存在だったのだが、戦国立志伝への登場をきっかけにようやく定着した。
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
| 武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
| 覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
| 天翔記 | 戦才 | 162 | 智才 | 132 | 政才 | 138 | 魅力 | 79 | 野望 | 65 | ||||
| 将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
| 烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
| 嵐世記 | 采配 | 69 | 智謀 | 54 | 政治 | 58 | 野望 | 70 | ||||||
| 蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
| 天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
| 革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
| 天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
| 創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
| 戦国立志伝 | 統率 | 69 | 武勇 | 74 | 知略 | 60 | 政治 | 75 | ||||||
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最終更新:2025/12/07(日) 20:00
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