想像を絶する作戦(英:Operation Unthinkable)とは、第二次世界大戦末期にイギリス軍が計画したソ連侵攻作戦である。アンシンカブル作戦とも呼ばれる。
イギリスの首相であるウィストン・チャーチルは反共主義者で、共産主義の親玉であるソビエト連邦を蛇蝎のごとく嫌っていた。第二次世界大戦序盤の1939年11月30日より開始されたフィンランドvsソ連の冬戦争では、イギリスはフィンランドを支持。更にイギリス軍がスカンジナビア半島に増援部隊を送ろうとしたため、ソ連軍はやむなくフィンランドとの講和に入った。このためソ連の指導者ヨシフ・スターリンはイギリスを警戒、両国の関係は悪化の一途を辿っていた。
しかし1941年6月22日、ドイツ軍がソ連領に侵攻した事で英ソはドイツという共通の敵を抱える事になり、チャーチルは意外にも支援を表明。嫌いなソビエトと共闘する道を選んだ。チャーチルは内心ソ連は敗れると考えており、ドイツと共倒れする事を望んだ。ところがモスクワの戦いでソ連軍が勝利した事により、逆にドイツを打倒する可能性が出てきた。これはチャーチルにとっては予想外で、このままでは英・米・ソ主導で戦後の世界秩序が構築されていく事になる。独ソ戦がソ連有利に傾き始めると、戦後世界を見据えてソ連は堂々と地盤固めに乗り出してきた。バルト三国の支配権承認を求めると同時に、イギリスが主導していたポーランド及びチェコスロバキア亡命政府による「ポーランド・チェコスロバキア国家連合構想」に反対し、破綻へと追いやってしまう。この事はチャーチルのみならず軍部もソ連に不満を抱き、潜在的敵国家の認識を強めた。また同盟国であるアメリカの大統領ルーズベルトは恐ろしいほど共産主義に無警戒であり、東ヨーロッパにおけるソ連の勢力拡大を認める姿勢を見せていた。
1944年10月、モスクワ会談にてパーセンテージ協定が結ばれた。これは東欧における勢力圏の割り合いを取り決めた協定だったが、ソ連を信用していないチャーチルは「ソビエトは協定を破ってくる」と警戒。実際、ソ連は東ヨーロッパに潜む共産系ゲリラを支援しており、ルーマニアやギリシャ等の赤化を着々と進めていた。また、1945年2月に行われたヤルタ会談でソ連は対日宣戦布告を約束していたが、チャーチルは宣戦布告どころか同盟を組む可能性があると危惧。ソ連への警戒心から、ついに対ソ戦争計画の策定を開始する。共産主義に無警戒だったルーズベルトが死去し、後任にトルーマン大統領が据えられたが、政治経験はチャーチルの方が圧倒的に上だった。このため力関係がイギリス有利となり、戦争計画がより一層推進されるとともにアメリカも巻き込む事になった。
ドイツ降伏後の1945年5月22日、イギリス軍は東欧からソ連の脅威を取り除く軍事作戦を立案。作戦開始日は総選挙が行われる4日前の7月1日に定められた。当時ソ連軍の兵力は米英連合軍の3倍と見積もられ、迅速な勝利が求められた。そこでイギリス軍は、かつてドイツ軍が使った電撃戦の再現を企図した。イギリス、アメリカ、カナダが投入できる総兵力約100個師団のうち、47個師団をドレスデン地域から進撃させ、奇襲攻撃を敢行。米英連合軍はポーランド東部で大規模な戦車戦を展開し、ソ連軍主力を瞬く間に撃破して勝利するというプランを構想。別働作戦として艦砲射撃と空母艦載機の支援のもとバルト海沿岸に奇襲上陸を行う計画も練られた。この作戦には反ソ感情の強いドイツ軍とポーランド軍の協力を得られる事が前提条件となっており、特にドイツ軍は10個師団の戦力が投入可能だったとされる。しかし、ここで決着が付かなかった場合はソ連と全面戦争する事になる。ソビエトは広大な土地を持っているため、イギリスのように海上封鎖で干上がる事は無い。世界最強と謳われたドイツ軍ですらソ連軍を打倒できなかったので、米英連合軍が全力を投じるのは勿論の事、ドイツ軍の再軍備も必要だった。中東方面に第二線が形成される事が想定されたが、ソ連軍が11個師団を有しているのに対し、連合軍はインド軍3個旅団のみと圧倒的に不利であった。中東方面は連合軍の惨敗に終わると考えられ、イラクとイランは石油資源とともにソ連の手中に収まり、返す刀でトルコへ進出してボスポラス及びダーダネルス海峡を封鎖される危険性が浮上した。とはいえソ連側にも問題があった。海軍力では絶対に連合軍に勝てず、どうあがいてもイギリス本国やアメリカへ上陸する事が出来ない。また、ドイツのような戦略爆撃を行う能力も無いので連合を倒す決定打に欠けていた。
欧州での戦争は終わったが、太平洋方面では大日本帝國やタイ王国といった枢軸国が残っており、もし米英との戦争が始まった場合、ソ連は敵の敵は味方理論で大日本帝國と同盟を結ぶ事が予想された。ソ連軍の助力を受けた支那派遣軍が大陸打通作戦のような大規模作戦を発動したり、対ソ作戦で戦力を取られた連合軍が対日戦で手詰まりを起こすなど戦争計画が根底から覆る危険性すら孕んでいた。
この軍事作戦の報告書を読んだイギリス陸軍参謀総長アラン・ブルック元帥は作戦成功は全くの不可能と評し、5月31日の参謀長会議でも「アンシンカブル(想像を絶する)」と評価された。幸か不幸か、6月8日に共産系パルチザンを率いていたチトーがイタリア北西部の都市トリエステの引き渡しに合意したため作戦発動の可能性は無くなった。そこでチャーチルはソ連軍がフランスやオランダまで進出してきた時に備え、6月10日に防衛計画の策定を命令。アメリカ軍の大半は日本本土侵攻のため太平洋に供出されており、手薄になった西ヨーロッパにソ連軍が攻めてくる事を危惧していたのである。7月11日に「想像を絶する作戦」という名称で報告書が完成した。この報告書によればソ連軍の脅威はロケット兵器を除けば限定的であり、向こう数年は安全だと結論付けられた。それでもチャーチルは原子爆弾によるソ連工業施設の一掃を含めた全面戦争を検討していたが、総選挙で保守党が大敗北を喫した事で退陣。想像を絶する作戦は完全に頓挫してしまったのだった。
一方、ソ連軍は想像を絶する作戦を察知していたらしく、1945年6月にゲオルギー・ジューコフ元帥がポーランドのソ連軍に防衛陣地の構築を突如命じたという。
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最終更新:2025/12/10(水) 00:00
最終更新:2025/12/09(火) 23:00
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