「時は戦国・・・」
戦国時代とは、時代区分の一つである。
統一政権が存在しない、または衰弱・消滅した状態で、複数勢力が戦闘を繰り返し覇権を争っている時代を言う。
単に戦国時代と言えば日本の歴史上の戦国時代を指すことが多いが、中国の歴史上の戦国時代を指すこともある。
明確に時代区分を出来るわけではないが、応仁の乱ののち室町幕府が政権としての機能を果たせなくなった頃から、織田信長によって室町幕府が終焉し安土桃山時代へと移行するまでとされる。
最近だと応仁の乱後、明応の政変で将軍が排斥された辺りとする説もある。
戦国時代はその性質上、様々な英雄が出現しまた各人の人気も高いが、果たして歴史上価値のある人物を
挙げるとするならば織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の三名にまで絞られるだろう。
逆を言えば、その他の武将や大名はどんなに人気があったとしてもテストに出る事は無い。
先生が戦国オタだったりした場合はその限りではないが、やはり入試には出ない。
入試の問題を作った人が戦国オタだったりした場合もまた、その限りではないが、やはり配点は低い。
しかしまあ、出る時は出るので、勉強はしておくに越した事は無いだろう。
どこかのTV番組で「日本人の好きな偉人第一位」に選ばれた超有名人。
その数々の偉業はしばしば三国時代の英雄、曹操と比べられる事もある。
尾張の国の大名、織田信秀のもとに生まれ、別名を「尾張のうつけ」とも。
最初から城を持っていたが、家柄は守護代のそのまた下であり、守護代織田信友、守護斯波氏を倒し
この時代の特色の一つでもある「下克上」を果たす。
後々将軍である足利義昭を追放し、さらにスケールの大きな「下克上」を果たすことになる。
さて、信長が桶狭間で今川義元を破ったというのは今更書くほどでもない有名な話である。
彼はこれ以降、天下人への道を駆け上がっていく。
周辺諸国を次々と下し、足利義昭を確保、上洛。権威を手に入れ、その後も天下布武として
武力による平和を求め続けた。
彼が評価される理由の一つに、その先見性、合理性がある。
例えば「第六天魔王」の名前の由来になった比叡山焼き討ち。
科学など無い当時、民衆に留まらず大名公家にまで大きく帰依を受けていた宗教の総本山を
それがたとえどんな理由であれ攻撃し下してしまうと言うのが一体どれほどの事か、想像が出来るだろうか。
なお、これを知った武田信玄が信長へ抗議の手紙を出しているが、その返信の際の信長の自称が
「第六天魔王」である。
日本全国の半分を領有し並ぶものが居ない程の英雄になったが、西国攻略へ向かう途上、
本能寺へ立ち寄り宿泊していた所、家臣の明智光秀に謀反を起こされ敢え無い最後を遂げる。
信長が本能寺で明智光秀に討たれた後、光秀を倒し信長の後継となったのが豊臣秀吉である。
信長の小者として仕え、最下級から関白の地位まで上りつめるのだが、これは世界で見ても非常に珍しい。
なお、権力者になりはしたものの信長の後を継ぐ形であるため、上の者を倒して力を手に入れる、という
「下克上」には当てはまらない。
信長の天下平定事業を継いだ秀吉は、多少の障害もあったものの、順調に各地を平定していき、
ついには関白、天下人となる。
ここに日本は再びの統一を見せ、平和が訪れたかに見えたが・・・・
秀吉の行った天下事業として有名なのが、「太閤検地」と「刀狩」である。
これにより日本全域で石単位の統一が行われ、農民は一揆を起こすための武器を奪われた。
そしてもう一つ、「朝鮮出兵」が行われている。
緒戦は破竹の進撃で、朝鮮八道のうち平安道と全羅道以外の道を全て制圧したものの、点と線による表面的な支配に過ぎなかった。そのため各地で「義兵」と呼ばれる義勇軍が抵抗し、全羅道の朝鮮水軍もまた攻勢を強めた結果、日本軍は守勢にまわることになる。更に明の援軍が来ると戦局は完全に転換した。
その膨大な戦費は豊臣政権を崩壊させる一因となった。
最後、戦国の世を生き延び遂に幕府を作り上げたのが徳川家康である。
豊臣政権を支える五大老として選ばれるも、最終的には豊臣氏を追い落としている辺り、「下克上」と言えるかも知れない。
幼少時を今川家に人質として過ごし、独立後は織田信長、豊臣秀吉に同盟、臣従する形で手腕を発揮する。
前田利家の死後、関が原の陣で敵を尽く排除し征夷大将軍に就任、幕府を作る。
積み重ねた功によりナンバー2となり、前任が居なくなった後をつぐのは秀吉と共通しているが、その時点の
制度やスタート状況が違っていた。
家康の代で幕府が成立、将軍を徳川家が務める事が決められたため、家康の死後も、徳川が権力の座を失う事は無かった。
この後、大阪の役で豊臣秀頼を一地方大名にまで没落させた家康は、元和二年(1616年)に75歳で没した。
ここに戦国時代は終わりを告げ、徳川家康が江戸に築いた幕府により江戸時代が始まる事となる。
時は戦国!
と言う事で、この時代には様々な英雄が出現したのは先も述べたとおりだ。
その中には皆大好き武田信玄や、上杉謙信、3つの矢の逸話で有名な毛利元就、チートじいさん北条早雲、
生まれが遅かったので乱世の中心になる事は適わなかったが、その生き様で色々とネタにされやすい
“独眼竜”伊達政宗などなど、大勢の魅力的な人物がいる。
まあ、その辺の詳しい事は『戦国時代の人物の一覧』にでも任せておくとしよう。
彼等はこの乱れた世の中、自己の領国を治めていた訳だが、当然の如く幕府の定めた法になぞ力は無い。
ではどうやって治めていたのか?そう、法が無ければ作ればいいのである。これを分国法と言う。
これがまた領国毎に良く出来ていて、例えば伊達の塵芥集(じんかいしゅう)などは、条文その数なんと170条!
これは分国法の中でも最大規模である。
その他武田氏の甲州法度次第、今川氏の今川仮名目録などが有名である。 実はこの三つを抑えておけば十分だったり。
こうして各地域は治められていた。優れた治世の場には人が集まり、文化も発展する。
次は文化について見てみよう。
たとえ乱世と言えども、文化は常に発展し続ける。
欧州の大航海時代に端を発する南蛮渡来の舶来物、それを参考とした南蛮文化。
千利休がその道を完成させた茶道。
他に狩野派の興隆や、歌舞伎の祖である阿国歌舞伎の出現などもある。
文化史と言うのはこの時代に限らず個々の繋がりが見え難いため覚え辛いが、その時代を語るためには
決して欠かせない重要な物なので、テストには良く出る。
なお、これらの文化を総称して安土桃山文化と呼ぶ。
地方の歴史は、交易を軸にして世界の歴史と繋がっている。
同様に、世界の歴史もまた、地方の歴史と繋がっているのである。
この時代、ヨーロッパはオリエントの強国によりオリエント以東との貿易を制限され、欧州へと閉じ込められていた。
どうにか道を開こうとしても、その強国には全く歯が立たない。
そこで彼らが目を付けたのが海である。海を渡ればまた新しい道が開けるかもしれない。
これが俗に言う大航海時代の始まりであった。
さて、日本にはまずポルトガル人が辿りついた。
もっとも、彼らの船は難破し、半ば漂着するような形でのものだったのだが。
これを機に、日本の諸国と南蛮人との貿易が始まるようになり、この時代の戦略や戦術を大きく変えた
種子島も伝来する。
よく勘違いされがちだが、実は種子島は日本最初の銃ではない。
中国で火薬が発明されたのがもっと前だからである。
あ、あと、決して忘れてはならないのがキリスト教の伝来である。
どこに行っても宗教とは相手の土地を教化しようとするもので(逆に寛大な政策を取るのもまた策の一つである)、
日本にも九州をはじめとして様々な場所にキリスト教、伴天連とも言うか、が広まっていった。
ちなみに、この時に日本に来たのはカトリックである。ヨーロッパではこのころ教会の汚職を糾弾するための運動が
起こっており(宗教改革)、旧態依然とした教会へ抵抗するプロテスタントとローマ・カトリックの間で、大きな溝が出来てしまった。
さんざ叩かれて、ヨーロッパでの立場が悪くなったカトリックはこの先どうすれば良いのだろう?
「そうだ、外国に版図を広げれば良いんじゃね!?」
こうして航海を繰り返した挙句、辿り着いた国の一つが日本なのである。
まずは超絶画家集団である狩野派の説明をしよう。
その出自は室町時代にまで遡る。
元々室町幕府の御用絵師として仕えていた狩野氏は、後に時の人織田信長へ接近し、代々の権力者の
加護を得て一代派閥へと成長した。
ありとあらゆる種類の絵を画き、何百年と画壇のトップに居た集団のため、覚えておくとテストで楽が出来る。
・・・・・・かもしれない。
彼らが何故重要かは、この画壇のトップに居座り続けた。と言う所にある。
この集団に影響を受けた画家も多く、今尚残っている作品は多くが国宝となっている。
同じく、後世江戸文化に影響を与え、現在も残っているものに歌舞伎がある。
出雲の阿国が踊った舞を発祥とする歌舞伎は、江戸時代を代表する文化である。
が、果たして戦国時代にはあまり関係が無い。
どちらかと言うと「江戸時代の歌舞伎の発祥」なのが重要なのである。
上記の二つには共に江戸時代における文化の走りと言う共通点がある。
では戦国時代特有の文化は何なのだろうか。
初めて日本に茶がもたらされたのは中国では唐の時代、日本の平安時代にまで遡る。
しかし戦国時代の茶道と言えばやはり千利休の大成したわび茶であろう。
彼は茶のみならず茶席の空間そのものを芸術として昇華した。
その精神を言葉で表すのは難しいが、こう言った戦国文化面を知るための入門漫画として、「へうげもの」がある。
個人的にオススメしておきたい一品である。
これに限らず、戦国史などはそれを題材にした漫画を三種類も読めば大体の流れは頭に入ってくる。
全て買い揃えるとなると多少値は張るが、今はブックオフや漫画喫茶などもあるので、読もうと思えば読めない事もない。
歴史理解への一手段として、頭の中へ入れて貰いたいと思う。
征夷大将軍
征夷、つまり夷(外敵)を征服する大将軍の事。将軍の上に大が付くのと付かないのとじゃえらい違いがある。
形式上はあくまでも朝廷の官の一つであり、軍権のトップ。天皇の代理として全国に居る将軍達を指揮する権限を持っている。
何故将軍の居城を幕府といったり、軍人であるはずなのに内政をしたりするのか疑問に思った事は無いだろうか。
たしかに、この征夷大将軍は有事の際にしか権力を持たない。しかし逆を言えば、有事でさえあれば権力を持っていられると言う事にもなる。
実は室町時代や江戸時代などの幕府のある時代は、名目上戦争を続けている事になっている。
幕府の幕は陣幕(戦争時自陣に張る幕の事)であり、大名の使用する宿を脇本陣などと呼んだりするのはこのため。
内政をするのも、戦をするために国力を蓄えているから、となる。
上洛
この場合、将軍の後見人になると言ったような意味が強い。
天下の将軍家を擁し盛り立てると言うのは即ち将軍家の権勢や天下への大義名分を利用できると言う
事であり、利用価値は幾分にもある。
ちなみに、上洛の「洛」は中国の都「洛陽」から来ている。
天下布武
織田信長の政策の一つ。
「武力で天下を取る」ではなく、「武力で天下を支配する」の意。
似ているようだが、全然別物
太閤
これは関白を譲った者の意。
現在の関白に比べて経験も功績もある前任への尊敬語である。
今では豊臣秀吉があまりにも有名であるため、ただ太閤と呼ぶ場合には秀吉の事を指す場合が多い。
オリエント
日の出ずる所の意。つまり東の方。
世界史を勉強している時に、良くここの区分が分からないと言う人が出てくるが、何の事は無い、中東である。
ヨーロッパから見て東の方にある良く分からない所と言う意味。
三国志の時代(200年頃)よりはるかに古い、紀元前400年頃~紀元前200年頃を言う。一般的にはその直前の時代区分である春秋時代を加えて「春秋戦国時代」と呼ばれる。
春秋時代と戦国時代の境には諸説あり、晋から趙・韓・魏が分離そして晋が滅亡した頃からとする説が有力である。
一方で戦国時代の終わりは明確。秦による中国統一までである。
なお、このようなわかりにくい状況にもかかわらずこの時代が春秋と戦国時代で区別されているのは、
この時代を纏めた書物がこの二つに分かれているからである。
この時代も群雄が割拠し、読み物としては非常に面白いが、やはりテストには出ない。
歴史的には、秦が中国全土を統一した事、孔子などの諸子百家が出現した事などが重要事項である。
特に孔子は非常に重要で、後の中国や周辺諸国の価値観に大きな影響を与えた他、
日本でも江戸時代に朱子学(孔子の教えをさらに発展させたものとでも覚えておけば良い)は
国学として扱われる事になる。
その他孫子など、彼らの教えの中には十分に現在でも通用するものが多い。読んで置いて損はないだろう。
この時代をわかりやすく纏めてくれている本として、歴史漫画の大家横山光輝が描いた「史記」がある。
多少値は張るが、面白いので興味がある方は一読をお勧めする。
しかし歴史系読み物の定めか、多分一読じゃ理解できない。まあ、そんなものである。
さて、秦が中国を統一した。
この時の秦の王がこの嬴政(エイセイ)である。始皇帝とも呼ばれる。
彼の成した事柄にもやはり偉業が多い。
例えばまず皇帝。この称号は始皇帝が作り出したものであり、朕と言う一人称も彼が作った。
秦による統一前、各国の君主はそれぞれ王を名乗っていた。
それを全て滅ぼした秦は、王の中の王、王よりも上の立場と言う事で皇帝が作られたのである。
実際はただの呼び名に過ぎないのだが、近代まで続いた制度の第一人者と言う事で、価値がある。
即ち国のトップと言う事なので、日本の天皇と言う呼び名もここから来ている。
他にも有名所で「焚書坑儒」、始皇帝の墓に入れられた「兵馬俑」などがある。
この内焚書坑儒は「貴重な書物を焼き目障りな儒家を生き埋めにした」などと悪く言われる事が多いが、
近年では悪習を打破するためのものだったと言われるとか言われないとか。
こう言った曖昧な部分の話は、人には語らせても自分は黙っていた方が良い場合が多い。
特に歴史関係は年々新事実が発覚するのが当たり前なので、この前の常識が明日には
時代遅れとなっている事もよくある。
しかし、それも含めてやはり歴史は面白いのだ。
彼の死後、始皇帝生前の度重なる出費により衰弱した秦は、項羽と劉邦と言う二人の英傑によって滅ぼされる。
しかし彼の行った偉業は次の漢の代になっても受け継がれ、漢に四百年の繁栄を授けた。
ともすれば悪者に描かれ、また秦が統一後すぐに滅んでしまう事から無能な暴君扱いされる事もあるが、
今まで誰もなし得なかった統一を成し遂げ、数々の先見の明ある事業を行った彼をどうして暗君扱いできようか。
尚、彼についての漫画は、ただいまヤングジャンプで「キングダム」が連載されているが、
ストーリーの良し悪しはともかく進みが遅いのでお勧めはしない。
諸子百家
この時代に現れた学者の総称。
諸子の子は人の名前につける尊敬語であり、百は数が多い事を表す。
つまり「たくさんの偉い人達」と言う事になる
孔子
諸子百家の中でも特に有名な人物の一人。
孔子の興した学問を儒教と言い、その学者を儒家と言う。
今で言う「良い事」の基準になってたりもする。なので悪い行いをなるべく避けるようにすると
ここに行き着く。
朱子学
これは宋代に出来た学問なので春秋戦国時代とはあまり関わりが無いが、儒教の一種なので解説しておく。
とは言っても、大した解説はしない。ただ、これは儒教の一種であり、日本でも盛んになった事があると言うだけである。
しかし、他の時代ではやはり重要になってきたりするので覚えておいて損はない。
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最終更新:2025/12/10(水) 02:00
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