新田義重(1135~1202)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
足利氏とは同祖の義国流河内源氏で、新田氏の祖というべき人物である。上野の開発に従事し、1157年に藤原忠雅に私領を寄進し下司職に任じられている。
秩父平氏やかつては協力関係にあった藤姓足利氏とは緊張関係に陥るが、南関東で支配体制を構築していた源義朝とは弟の源義康が相婿であったこともあり、提携することとなった。その過程で義朝の長男・源義平や義康の庶長子・矢田義清に娘を嫁がせている。
また義光流河内源氏とも交流があり、武田信義の弟・加賀美遠光の加冠役や平賀盛義の親族たちを猶子としている。
平家全盛期になるとこれに臣従し、従五位下・大炊助に任ぜられた。
やがて治承・寿永の乱が始まると、1180年8月の源頼朝の挙兵以降、甥の足利義兼、息子の山名義範、孫の里見義成らが早くから頼朝の旗下に加わったのに対し、「自立の志」を持って軍勢を集め、第3勢力として様子見に徹してしまう。12月にこれに対する頼朝の弁明要求に応じてようやく頼朝と合流し、以降他の一族に比べて冷遇されることとなった。また頼朝の側室を求める動きにも北条政子への配慮から断ってしまい、ついに頼朝に信頼されることはなかったのである。
吾妻鏡にもほとんど記録が残っておらず、1202年に亡くなったことがわかる。
彼の死後、ひ孫である新田政義の失策などもあり、新田氏はますます零落していくこととなる。
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最終更新:2024/04/19(金) 19:00
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