日本維新の会とは、
当記事では3について記述する。
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2010年4月に橋下徹が結成した地域政党「大阪維新の会」をベースに、自民党・民主党・みんなの党を離党した国会議員を加えて2012年9月に結成された政党である。結成直後に日本創新党と太陽の党(旧たちあがれ日本)が合流しており、太陽の党で代表を務めた石原慎太郎と橋下徹の二頭体制となった。
結成当時は社会保障や労働規制の縮小、TPP推進、フラットタックスの導入など徹底した新自由主義路線と首相公選制・道州制などの統治機構改革をアピールポイントにしていたが、太陽の党合流後は日本国憲法の否定や自由主義史観の推進など右派イデオロギーが前面に出る傾向が強くなった。また当初は脱原発政党を標榜していたが、こちらも太陽の党合流後に軌道修正している。
結党直後の2012年総選挙では54議席を獲得し、民主党に3議席差まで迫った。そのため一時は民主党に代わる大政党に成長し自民党との保守二大政党制を実現するのではないかと囁かれた。しかし太陽の党合流による中間層・無党派層の流出や党内対立の激化、橋下共同代表の失言などから党勢は総選挙をピークに下り坂となり、翌2013年の参院選では得票を大きく減らし、獲得議席も民主党の半分以下の8議席に留まった。また都議選など地方選でも敗北が相次いだ。
こうした中でみんなの党の中道寄りメンバーが結成した結いの党との合流案が浮上すると、合流に積極的な橋下派(大阪派)と合流に否定的な石原派(東京派・旧太陽派)の亀裂は修復不可能なレベルにまで広がり、結局2014年5月に分党が決定された。手続上は同年7月から8月頃に2つの新党に分かれる予定で、分党後は橋下派新党が「日本維新の会」の党名を継続して使用し、石原派新党は「次世代の党」を名乗るという。
分党直前の時点で衆議院議員53名(総選挙後に西村眞悟を除名)、参議院議員9名(2016年改選組1名)の計62名が所属していた。内訳は橋下派が約30名、石原派が約15名、中間派が約20名程度とされていた。分党後の行き先は橋下新党38名、石原新党22名、離党・無所属2名となった。
欧米のメディアでは極右(radical-right)政党と表現されることも多かったが、所属メンバーの思想は政治的にはリベラル寄りの新自由主義者から新保守主義者、復古主義者や国粋主義者まで多種多様であり、それゆえについに一枚岩になることはなかった。
党の統領として以下の維新八策が掲げられている。
この他、核武装の推進・電力市場の自由化・最低賃金の廃止や解雇規制の緩和などの政策が掲げられている(一部太陽の党が合流してきたことによりトーンダウン化した政策が存在する)。
また外国人参政権については、橋下は特別永住外国人(在日朝鮮・韓国・台湾人及びその子孫)の地方参政権に限って容認の立場を示していたが、太陽の党合流後は党として外国人参政権を容認しない考えを表明している。
所属議員の帰属先は2014年6月24日時点のもの。参加議員一覧の政党名は維新入党前の最終所属政党。斜体字は参議院議員。
| 日本維新の会 (橋下新党) |
次世代の党 (石原新党) |
離党・無所属 | ||
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| 参加人数 | 38名(衆32名 参6名) | 22名(衆19名 参3名) | 2名(衆2名) | |
| 参加議員 | 太陽の党 | 河野正美 三木圭恵 村岡敏英 片山虎之助 |
石原慎太郎 今村洋史 園田博之 中丸啓 中山成彬 平沼赳夫 藤井孝男 松田学 三宅博 中野正志 中山恭子 |
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| 自由民主党 | 岩永裕貴 遠藤敬 新原秀人 鈴木義弘 谷畑孝 松浪健太 儀間光男 藤巻健史 |
西田譲 | ||
| 民主党 | 石関貴史 今井雅人 小沢鋭仁 坂口直人 松野頼久 室井邦彦 |
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| みんなの党 | 足立康史 小熊慎司 清水鴻一郎 | 上野宏史 桜内文城 杉田水脈 | ||
| 大阪維新の会 | 井上英孝 浦野靖人 馬場信幸 東徹 |
西野弘一 | ||
| 日本創新党 | 中田宏 山田宏 | |||
| 諸派・無所属 | 伊藤信久 上西小百合 木下智彦 坂本祐之輔 椎木保 重徳和彦 鈴木望 高橋美穂 丸山穂高 村上政俊 百瀬智之 山之内毅 清水貴之 |
坂元大輔 田沼隆志 宮沢隆仁 アントニオ猪木 |
西岡新 林原由佳 | |
事前の予測よりも石原新党を選ぶ中間派議員が多く、ほぼ3:2に分かれる結果となった。国会議員でない橋下に党を運営されることへの不満に加え、自民党寄りの姿勢を明確にしている石原派が次回選挙での自民党との選挙協力確保を謳い文句にしたことで、地盤の弱い新人議員の一部がそちらに靡いたことも影響した[1]。
橋下新党は結いの党に加え民主党右派(非労組系)やみんなの党の一部との連携を志向し、新自由主義と統治機構改革を旗印に経済右派勢力の結集を目指している。政治面では右派色を控え目にする可能性が高く、方向性としては戦前に保守二大政党制の左側を担った立憲民政党のポジションを目指しているとも言える。
石原新党は日本国憲法の破棄・否定と自主憲法の制定や自由主義史観に基づく大日本帝国の歴史的再評価など、徹底した右派イデオロギー路線を打ち出している。また自民党への「右」からの協力姿勢を明確にし、自民党の「左」のパートナーである公明党を連立からパージさせることを重要目標に掲げている。ポジション的には近年欧州で躍進著しいフランス国民戦線などの本格的極右政党の役割を担うものと見られる。
なお当初は田母神俊雄元航空幕僚長の石原新党参加が報じられていたが、後に田母神は「日本真正保守党」(真保党)の結成を宣言し、当面は石原新党とは別の独立した政党として協力関係を築きたいとしている。また韓国人へのヘイトスピーチを理由に党を除名された西村眞悟衆議院議員は田母神と共に石原新党に参加したいとしているが、中田宏など一部の議員は西村の合流に否定的な見方を示している[2]。
みんなの党は両新党の間で難しい舵取りを迫られている。和田政宗や既に離党を表明した江口克彦など右派色の強い議員の一部は既に石原新党への参加が囁かれているほか、石原新党との統一会派結成を目指す動きもあるものの、浅尾慶一郎代表は「歴史修正主義には立てない」として勉強会などを通じた共闘関係に留めたいとの意向を示している[3][4]。一方橋下新党もみんなの党に秋波を送っているものの、結いの党分裂の経緯などから心情的なしこりを残している議員も少なくないため、呼応の動きがどの程度広がるかは依然不透明である。
公式ニコ割アンケートのネット世論調査で毎月行われている政党支持率調査における日本維新の会支持率の推移は以下の通りである。
やはり2012年の総選挙をピークに下り坂になっており、最近では自民党に次ぐ支持率第2位の座を共産党に明け渡す場面が目立つ。特に20代以下の若い世代の支持率低下が激しく、2014年に入ってからは老高若低型の支持率分布が明確になっている。男女別では一貫して男高女低傾向にあり、2ポイント近い差がつくこともある。
| 代 | 党首名 | 在任期間 |
| 1 | 橋下徹 | 2012/09/28 - 2012/11/17 |
| 2 | 石原慎太郎 | 2012/11/17 - 2013/01/19 |
| 代 | 党首名 | 在任期間 |
| 1 | 石原慎太郎 | 2013/01/19 - |
| 橋下徹 |
分党直前の2014年5月時点で、大百科記事のある所属議員のみ掲載する。
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当初は地方支部ではなく母体となった大阪維新の会のような地域政党を各地に設け、日本維新の会がそれらと協定を結んで傘下に置くという独特な組織構想が練られていた。
しかし独自の政治団体としての活動実態を長期間残せたのは母体の大阪維新の会の他は、いずれも日本維新の会結成前から橋下への賛同姿勢を見せていた愛媛維新の会・松山維新の会・西予維新の会の3団体のみで、日本維新の会結成後に傘下組織となった5つの「○○維新の会」はこれと言った活動実績のないままであった。
また党勢の衰えもあって以後は他地域での「○○維新の会」の立ち上げも見られなくなったため、結局維新側もこの構想を放棄し、他党のようにトップダウンで都道府県支部を設立して各地の「○○維新」を合流させることにした。
ところが愛媛の3団体はこれに反発して総支部への参加を拒否。さらに2014年4月の松山市議選で松山維新の会が敗北すると、「維新の名前のせいで苦戦させられた」として党名変更を検討する(有権者の混乱を防ぐためとして結局現状維持)など、地方の「維新離れ」も次第に加速している。
なお大阪維新の会が躍進を遂げた2011年の統一地方選挙では、正式な協定を結んでいないにもかかわらず「○○維新の会」を設立してその公認候補を名乗り、あたかも大阪維新の会のパートナーであるかのように装う候補者が大量に出現した。例えば兵庫県議会議員選挙で「西宮維新の会」を名乗って当選した野々村竜太郎(元は無所属)や、吹田市議会議員選挙で「吹田維新の会」を名乗って当選した柿花道明(元は維新政党・新風)などである[5]。
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最終更新:2025/12/08(月) 05:00
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