最上義定 単語

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最上義定(もがみ・よしさだ 1492? ~ 1520)とは、出羽国の戦国大名である。羽州探題を務める最上家9代当主。山形城主。

概要

最上家8代当主・最上義淳の子。弟に中野義建、谷地輝幸がいる。

伊達氏の積極的な進出の前に敗北し、伊達稙宗の妹を妻に迎えることになった。これにより最上氏はしばし伊達氏の強い影響下に置かれ続けることになってしまう。更には跡継ぎなく没し、最上家は更なるピンチを迎える。

生涯

当時の情勢

現在の山形県にあたる出羽国南部(羽前)地域は以下のような勢力が割拠していた。

  • 置賜郡(南部…米沢など):伊達氏
  • 最上郡(中部…山形など):最上氏
  • 村山郡(北部…新庄など):天童氏・寒河江氏・清水氏などの諸国人が混在
  • 田川郡(西部…庄内地方):大宝寺氏

ちなみに当時と現在の最上郡と村山郡の場所は逆である。戦国時代までは北が村山・南が最上だったのだが、太閤検地の際に何故か名前が入れ替えられて、北が最上・南が村山になった。本当に何故だろう……。

家督相続 ~ 寒河江攻略

1504年に父が病没し、最上家の家督を継ぐ。

この年、近隣の豪族・寒河江氏(大江広元の後裔で毛利氏とは同族)でも7代当主・寒河江宗広が病没し、宗広の次男・寒河江祥真と、六男・寒河江孝広とを擁立する二派に分かれての後継者争いが勃発していた。

寒河江氏の内紛状況
寒河江祥真 次期当主候補 寒河江孝広
先代の次男
出家していた
解説 先代の六男
正室の子で嫡男だが、まだ2歳
寒河江宗綱(先代の二弟) 擁立者 寒河江広直(先代の三弟)
寒河江広説(広直の養子)

この混乱に目をつけた義定は、継いだばかりの最上家中をまとめるチャンスと見て、寒河江領に攻め込んだ。寒河江広説の実父である白岩満広らの奮闘により、3度の侵攻は全て撃退されてしまったが、最終的には有利な和議によって寒河江氏を傘下に収め、勢力拡大に成功した。

寒河江氏の内紛自体は嫡男である孝広側が勝利した。祥真と宗綱は謀殺され、翌年に孝広はわずか3歳で家督を継いだ。(まさか後々最上家も同じような事態に陥るとは、この時は誰も予想していなかったのだが)

伊達氏の侵略 ~ 最上衰退

一方、庄内地方の大宝寺家では、羽黒山を傘下に収めるなど権力を強めた大宝寺政氏が没し、1512年頃になると政氏の子・大宝寺澄氏と庶流の砂越氏雄の内紛が起こっていた。この時は義定も漁夫の利を狙い、寒河江まで出陣して情勢を伺っている。出羽南部有数の実力者となった最上義定には、天童氏や寒河江氏などの諸国人も従い、向かうところ敵なしかと思われた。

しかし、そこに待ったをかけた人物がいた。西は米沢、東は桑折を領有する奥羽の有力大名・伊達稙宗(当時は高宗)である。

1508年、伊達軍は最上郡上山の高楯城を落とし、城主・上山義房は天童城へと逃亡した(上山氏は天童氏の庶流)。これによって最上領と伊達領は隣接した。

1514年、稙宗の父・伊達尚宗が亡くなり、稙宗が家督を継ぐと最上領への侵攻はさらに活発化する。これに対し、義定は天童氏などの最上庶流諸家などを味方につけて、長谷堂にて伊達軍と激突した。が、これは最上方の大敗に終わる。舅・山野辺直広や吉川政周(寒河江一族)などの有力武将を多数失った上、稙宗の妹を娶るという屈辱的な和睦をさせられた。(この時、元々正室であった山野辺直広の娘がどうなったのかは不明)

これが契機となり、最上氏は事実上伊達氏の従属下という立場となる。以降最上氏の勢力は衰退、諸豪族も独立を強めていった。失意の義定は1520年に嗣子がいないまま病没し、最上氏は断絶の危機・当主空位の状態となってしまう。

実は山野辺夫人との間に男子が1人がいたが行方不明になった、とも言われる。

最上義守の家督相続まで

1520年の義定の病没で当主空位となった最上氏は、伊達夫人を介して伊達稙宗の本格的な傀儡下に置かれかねない事態となった。この状況に反抗して上山義房が挙兵するも、稙宗の前に戦死した。

これを最上氏直接支配の口実として、稙宗は最上領を刈り取っていく。しかしこれには国人たちによる反伊達の挙兵が相次いで、併合を諦めた稙宗は自領へと戻っていった。

従属状態は続いたものの、翌1521年に産まれた義定の大甥(弟の孫)・最上義守が、1522年にわずか2歳で家督を継ぎ、御家断絶の危機は免れた。やがて伊達氏は「天文の乱」で一時衰退し、最上氏の復活へと繋がっていく。

生年について

一説には1492年生まれと言われるが、やや疑わしい部分もある。元々彼に関する史料が少ないのもあるのだが、特に最上義守との年齢差がかなり少ない。

前述の通り、義定の弟(中野義建)の孫(次男)が最上義守なのだが、生年に29年しか差が無い。 まあこの時代は側室もいるので同じ年に兄弟が生まれる事(※1)もあれば、現代よりかなり若い年齢で子供を儲けるケース(※2)もあるので一概に無いとは言いきれないが……。

  • ※1の例:織田信雄と織田信孝など
  • ※2の例:若狭武田氏の武田信豊は13歳の時に子・武田義統が誕生

参考程度に、義定の祖父の最上満氏は1446年生まれか?とされる。父の生年は不明。

= 最上氏略系図=
最上義淳 最上義定
中野義建 中野義清 中野義政
谷地輝幸 最上義守

補足

「信長の野望」(PC)シリーズにおける最上義定の能力一覧。 

生没年の関係で、シリーズではただ1度、蒼天録PKにのみ登場する。能力は伊達稙宗にやられた事案の方がクローズアップされており、前半の栄光は取り入れられていない。これも宿命か……。余談ながら没年が史実通り1520年なので、1521年に義守が誕生する前に死亡してしまうと最上家は断絶する(他に一門がいない)。

軍事能力 内政能力
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 魅力 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 魅力 野望 教養
覇王伝 采配 戦闘 智謀 政治 野望
天翔記 戦才 智才 政才 魅力 野望
将星録 戦闘 智謀 政治
烈風伝 采配 戦闘 智謀 政治
嵐世記 采配 智謀 政治 野望
蒼天録 統率 38 知略 35 政治 20
天下創世 統率 知略 政治 教養
革新 統率 武勇 知略 政治
天道 統率 武勇 知略 政治
創造 統率 武勇 知略 政治

関連動画

最上義定に関するニコニコ動画の動画を紹介してください。

関連項目

  • 最上義淳(8代当主)
  • 最上義守(10代当主)
  • 中野義建
  • 谷地輝幸
  • 中野義清
  • 中野義政
  • 伊達稙宗
  • 大宝寺淳氏
  • 上山義房
  • 戦国時代の人物の一覧

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