村田真一とは、1990年代の読売ジャイアンツを支えた捕手である。
1963年12月5日生まれ、神戸市出身 右投右打で、背番号は56→9
ねずみの様に泥だらけになって練習したことから、「チュウ」と愛称がついている。
滝川高校から1982年にドラフト5位で巨人に入団。
1984年から一軍で出場機会を得るが、チームには全盛期を迎えていた山倉和博、近鉄バファローズから移籍してきた有田修三といった、実績も経験もある捕手がいたため、出番は少なかった。
1990年から正捕手として起用されはじめるが、西武ライオンズから移籍してきたデーブ大久保にその座を脅かされる。
1993年、第2期長嶋茂雄政権下で正捕手の座を確立するが、吉原孝介、村田善則らと併用されていたため、規定打席をクリアしたことは一度もない。
それでも、チームの勝利を優先し、正捕手を争うライバルであっても、自身が持つデータは積極的に提供した。
また、巨人がリーグ優勝した1994年には桑田真澄と、1996年には斎藤雅樹と、ベストバッテリー賞を受賞している。
2001年には、阿部慎之助の入団もあって出番が大きく減ったが、阿部のコーチ役をまっとう。この年限りで引退した。
引退後はテレビ朝日系を中心に解説者として活動していたが、
2006年、第2期原辰徳政権の発足に伴い、バッテリーコーチとして巨人に復帰。
2008年からは、現役時のパンチ力を買われて打撃コーチに転任。
プロ入り後に痛めた影響もあり、捕手としては致命的なほど肩が弱かった。それをカバーするように、ワンバウンドでの送球を習得。
リードでは、相方となる投手の特性を把握し、長所を最大限に活かすリードを実践。
自身の現役最終年に入団した阿部や、バッテリーコーチとして選手を指導したときも方針は変わっていない。
規定打席未到達ながら推定年俸が1億円を超えたのも、打撃はもちろんだが、投手陣からの信頼が高かったからだろう。
1994年5月、ヤクルトスワローズ戦で頭部に死球を受け、激昂してピッチャーマウンドへ詰め寄ろうとしたが数歩で倒れ込み、病院へ搬送される。この後、巨人の報復死球などで乱闘が起こり、頭部への危険球が即退場となるルールができるきっかけの当事者と言われている。
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最終更新:2025/12/09(火) 21:00
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