松田宣浩(まつだ のぶひろ、1983年5月17日-)とは、滋賀県草津市出身のプロ野球選手(三塁手)である。現在は福岡ソフトバンクホークスに所属。
福岡ソフトバンクホークス #5 | |
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松田宣浩 | |
基本情報 | |
出身地 | 滋賀県草津市 |
生年月日 | 1983年5月17日 |
身長 体重 |
179cm 86kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 三塁手 |
プロ入り | 2005年希望入団枠 |
経歴 | |
国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
WBC | 2013年 |
日米野球 | 2014年 |
プロ野球選手テンプレート |
中京高校時代は遊撃手。亜細亜大学で主砲として活躍し、右の大砲候補として2005年のドラフト希望入団枠で福岡ソフトバンクホークスに入団。即戦力としても期待され、江川智晃と三塁を競わせるため、その年三塁手を守っていたトニー・バティスタが契約を1年残して解雇されている。
2006目から一軍で起用されるが低打率にあえぎ、守備難もあって夏前には二軍落ちしてしまった。
2007年は小久保裕紀のチーム復帰で出番が危ぶまれたが、二軍で結果を残して一軍昇格を果たすと、打撃・守備とも前年から向上を見せ一軍に定着。故障者が続出する中でクリーンナップも努めるなど飛躍を期待させるシーズンになった。
2008年は小久保の出遅れにより開幕を6番サードで迎えると、怪我持ちの小久保を一塁に追いやり、そのまま三塁のレギュラーに定着。打順は主に6~8番だったが、小久保や柴原洋の不在時には3番や5番を任せられることもあった。怪我人だらけのチームの中でフルシーズン出場を続け、最終的には142試合で打率.279、17本塁打、63打点の成績を残した。一方でリーグ6位の115三振、守備では埼玉西武ライオンズの中村剛也に次ぐ17失策と課題も多く残した。ちなみにこの年、シーズン被本塁打が僅か3本(うち2本はセ・パ交流戦)だった岩隈久志から、パ・リーグの野手で唯一の本塁打を放っている。
2009年は「3番サード」の定位置を約束されて開幕を迎えるが、開幕戦で指を骨折して戦線離脱。6月に復帰した際には既に3番には代役として入団したホセ・オーティズが定着しており、長谷川勇也の絶好調や多村仁志の復帰に押される形で8番。ところがそれが結果として、7番の長谷川、9番の田上秀則と共に下位打線にもうひとつのクリーンナップを作るような格好になり、恐怖の下位打線として存在感を発揮した。
しかし、交流戦明け早々に千葉ロッテマリーンズの唐川侑己から死球を受けて再び骨折。二度目の長期離脱を余儀なくされる。9月に二度目の復帰を果たしたが、開幕直後と夏場という大事な時期に戦線を離れてしまう不本意なシーズンになってしまった。
2010年はオープン戦で外野を守ったりもしたが、李杋浩とのレギュラー争いを制して8番三塁手で開幕スタメン。ここぞの場面で勝負強さを見せ、下位打線の核として打線の好調を支えていた。ところが5月8日の埼玉西武ライオンズ戦でファウルを打った際にまたしても骨折。2年続けて骨折での戦線離脱となってしまったが、6月には戦線復帰。最終的には自己最多の19本塁打、71打点、17盗塁を記録したが、打率は.255とレギュラー定着後では最低の数字、出塁率.284はリーグ最下位に終わった。守備ではスタメン出場も含め13試合で左翼手を守った。
2011年は内川聖一の加入もあって三塁に専念。主に7番打者として開幕から統一球をものともせず本塁打を量産、内川の故障時は代役の3番も務めるなど、チームの快進撃を支える活躍を見せる。本塁打王争いを独走する中村剛也をファン投票・選手間投票ともに上回ってのオールスター初出場も果たした。シーズン終盤には4番も任され、故障もなく、初めて144試合フルイニング出場を果たし、打率.282、25本塁打、83打点、27盗塁と自己最高の成績を記録。リーグ連覇・日本一に大きく貢献した。また三塁守備も安定し、12球団の三塁手でトップの296補殺を記録。ゴールデングラブ賞を受賞した。
2012年は主に5番を打ち、交流戦後は内川の不振で3番に回る。首位打者争いに顔を出すなど、苦戦するチーム、特に主力が不振と故障でボロボロの打線の中で孤軍奮闘気味に活躍していたが、8月1日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で美馬学から右手に死球を受けて骨折し戦線離脱。シーズン絶望と思いきや、終盤に復帰。95試合ながら、打率.300をマークした。
2013年、WBC日本代表に選出される。大会では恐怖の9番打者として活躍した。シーズンでは6番・三塁でスタート、交流戦から4番に入って3番の内川、5番の長谷川と共に打ちまくりチームを交流戦優勝へ導いた。この年は怪我無く全試合出場したがシーズンを通して好不調の波が激しく、終盤は柳田悠岐や内川聖一に4番を譲り5番・6番での出場が中心になり、4番定着とはならなかった。最終的に打率.279、20本塁打、90打点で2度目のゴールデングラブ賞を受賞した。
2014年から選手会長に就任。5月13日の千葉ロッテマリーンズ戦でNPB通算95,000号となるホームランを放った。主に6番・三塁で順調に数字を残していたが、7月2日の練習中に右手人差し指に打球を受け骨折、戦線離脱となり選出されていたオールスターも出場辞退となった。8月下旬に復帰。優勝を賭けた最終戦となった10月2日のオリックス・バファローズ戦でサヨナラヒットを放ち、ホークスを3年ぶりのリーグ優勝に導いた。規定打席には届かなかったが、101試合で打率.301、18本塁打、56打点の数字を残す。
日本シリーズでは最初は不調だったものの、王手を掛けた第5戦で値千金の決勝タイムリーを放ちチームを日本一に導く。また11月に行われる日米野球の日本代表に選出された。背番号3。
右打者で三塁手であることからポスト小久保と言われるが、本人は松中信彦を師と仰いでいる。ホームランも放物線ではなく、弾丸ライナーで突き刺さる当たりが多い。不格好なスイングからレフトスタンド最前列に叩き込むライナーのホームランがその真骨頂。
ある試合でホームランを打ってお立ち台に上がり、曰く「琵琶湖まで飛ばしました!」。以降ファンの間では松田のホームランの着弾点を指して「今日の琵琶湖はあそこか」と言ったり、松田のホームラン自体を「BIWAKO」と呼んだりする。
ホームランバッターでありながら、同時にかなりの俊足でもある。2008年はリーグ1位の10三塁打を記録。2008年には12盗塁、2010年は17盗塁、2011年は27盗塁と盗塁数も年々増やしており、いずれはトリプルスリーも夢ではない……かもしれない。ルーキー時代からしばらくは不安視されていた三塁手の守備も現在はかなり上達し、2011年にはゴールデングラブ賞も獲得。走攻守三拍子揃ったリーグを代表する好選手に成長した。
2011年に多くの野手が統一球で成績を落とす中、本塁打を増やし自己最高の成績を残したのは、打球を前でさばく打法のおかげと言われる。本人曰く「巷で噂の前手ギュン」。誰が噂してるの?
空振りしたりファールを打ったりしたとき、よく以下のAAのようにケンケンをするような動きをする。派手なときは本塁ベースどころか左のバッターボックスまでケンケンで超えてしまうことも。ファンからは「歌舞伎」「おっとっと」「松田特有のステップ」などと呼ばれて親しまれている。これが出るときは「バットが振れている証拠」と見る向きもある。
○/ ゝ 「 < / ○ノ \ >ヽ ○/ (∧ ))) >
インタビューでの受け答えやテレビ出演時の様子を見ればわかるが、結構な天然キャラ。カブレラ曰く「チョットアタマバカ」。糸井嘉男、平田良介に並ぶ逸材とも一部では言われる。同僚にもっとヤバい大場翔太がいるけども。
普段からやたらと目をパチパチさせており、まばたきがトレードマーク扱いされることも。原因はドライアイ。本人はコンプレックスに感じているらしい。2013年にはその対策もあって、出塁すると塁上で眼鏡をかけていた。
愛称は「マッチ」。同僚にKAWASAKIとHONDA(とヤナセ)がいたためMAZDAと呼ばれることもある。
球団 | レス | No | プレイヤー |
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ソフトバンク | 応援歌のピコカキコ一覧#62 | 8615 |
(2014年終了時点)
年度 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2014年 | 101 | 423 | 392 | 54 | 118 | 18 | 56 | 12 | 1 | 4 | 24 | 2 | 80 | 13 | .301 | .341 |
NPB:9年 | 921 | 3690 | 3393 | 453 | 936 | 126 | 483 | 101 | 38 | 25 | 196 | 38 | 720 | 68 | .276 | .320 |
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最終更新:2024/04/20(土) 06:00
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