森野将彦(もりの まさひこ、1978年7月28日-)とは、神奈川県出身のドアラの中の人プロ野球選手(内野手・外野手)である。現在は中日ドラゴンズに所属。
背番号がコロコロ変わる選手で、2014年から7を付けている。
| 中日ドラゴンズ #7 | |
|---|---|
| 森野将彦 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | 日本 |
| 出身地 | 神奈川県横浜市 |
| 生年月日 | 1978年7月28日 |
| 身長 体重 |
180cm 85kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投左打 |
| 守備位置 | 内野手、外野手 |
| プロ入り | 1996年ドラフト2位 |
| 経歴 | |
|
|
| プロ野球選手テンプレート | |
1996年のドラフト2位で東海大相模高校から中日ドラゴンズに入団。同期には小山伸一郎がいる。
ポスト立浪和義として期待されながらも長らく一軍半の選手だったが、2005年に左翼手として出場機会を増やし、2006年にはついに立浪から三塁手の定位置を奪い主に5番、6番打者としてレギュラーに定着。リーグ優勝に貢献した。
2007年は中村紀洋の加入と、荒木や福留の故障離脱により二塁手や外野での出場が多かった。前半戦は5番、福留の離脱後は3番を打ち、97打点を挙げる勝負強い打撃で日本一の原動力となる。
2008年は和田一浩の加入で今度は中堅手に回る。また北京五輪代表にも選ばれた。故障離脱と北京出場により96試合の出場に留まるが、前年を上回る打率.321、19本塁打を挙げた。制度変更によりFA権を取得したが、残留を表明し長期契約を結ぶ。
2009年は中村紀洋の移籍により本職の三塁に戻るが、開幕から打撃不振のうえ失策も非常に多くなってしまった。打撃はシーズン中盤から復調し、23本塁打、109打点(リーグ2位)と持ち味の勝負強さを発揮。一方守備では、過去一軍で三塁を守った8年間で通算15失策だったのが、1年でなんと25失策を冒してしまった。
2010年は選手会長に就任。本塁打、打率は前年を下回ったが、全試合に出場。和田一浩とともに貧打のチームの中で主砲として奮闘、リーグ優勝に貢献し、ベストナインに選出された。
2011年は統一球の影響をモロに受けたのかシーズンを通して大不振に苦しみ、滅多に選手を責めない落合監督からも「森野だよ、森野!」と言われる羽目に。7月こそ月間MVPを獲得したものの、打率.232、10本塁打、45打点とレギュラー定着後最悪の数字に終わった。
2012年はプロ入り初サヨナラホームランを記録。4番を任せられたこともあったが、この年も統一球の影響を受け、まともな数字を残せなかった。
2013年は統一球ではなくなり、打率.286、16本塁打と打棒が復活。オフには背番号を7に変更した。
2014年は一塁手になり、打撃への負担が少なくなったのか、141試合に出場し、前年を上回る86打点を記録した。
2015年は右手親指を負傷し2ヶ月離脱した影響で82試合、0本塁打、10打点に留まった。
2016年は高橋周平とダヤン・ビシエドの台頭で68試合に留まった。
| 球団 | レス | No | プレイヤー |
|---|---|---|---|
| 中日(旧) | 森野将彦#26 | 7042 | |
| 中日 | 応援歌のピコカキコ一覧#1212 | 13249 |
(2016年終了時点)
| 通算:18年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 1779 | 6447 | 5666 | 726 | 1571 | 331 | 13 | 165 | 781 | 18 | 58 | 53 | 633 | 37 | 936 | 131 | .277 | .351 |
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最終更新:2025/12/07(日) 12:00
最終更新:2025/12/07(日) 11:00
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