椿(松型駆逐艦) 単語

ツバキ

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椿(松型駆逐艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した松型駆逐艦15番艦である。1944年11月30日竣工。2回の中破を経験しながらも終戦まで生き残った。1945年11月30日除籍。

概要

ガダルカナル島争奪戦やソロモン諸島の戦いにより多くの艦隊型駆逐艦を喪失した帝國海軍は、戦時急造型である松型駆逐艦の設計に着手。椿はその15番艦にあたる。

艦名の由来はツバキ目ツバキ科ツバキ属の常緑高木の総称。平安時代からあったとされる、ツバキの葉で包んだ「椿餅」は日本最古の和菓子ではないかと言われ、1974年には住民投票で川崎市の市木に選出されるなど古来から人々の営みに接してきた知名度のある木と言える。

戦歴

1942年度戦時建造補充計画(通称マル五)において丁型一等駆逐艦5498号艦の仮称で建造が決定。1944年6月20日、臨時軍事費を投じて舞鶴工廠で起工、8月25日に駆逐艦椿と命名され、9月30日に進水、10月20日から11月25日まで艤装員事務所を設置し、11月30日に竣工を果たした。艦長に田中一郎少佐が着任するとともに呉鎮守府第11水雷戦隊へ編入。

1944年12月1日、第11水雷戦隊と合流するため舞鶴を出港、翌日徳山湾へ到着して給油を受け、12月3日に諸訓練を行いながら安下庄へ移動。12月5日に安下庄を出港して同日中に呉へ入港し、7日まで軍需品の積み込みを行った。12月9日、呉を出港して安下庄を拠点に慣熟訓練に従事。

1945年1月25日から27日まで大津島の第1特別基地隊の訓練に従事した後、呉工廠にて修理を受ける。2月5日、支那方面艦隊に転属して第1海上護衛隊の指揮下に入り、本土・大陸間の船団護衛任務に参加する事に。2月14日、呉を出港して門司に回航され、現地でモタ38船団と合流したのち2月16日に出発。道中何事もなく2月18日に目的地の上海へ到着した。3月15日、姉妹艦桜、楢、欅、柳、橘とともに第53駆逐隊を新編。上海にはかつて日米交換船として活躍し、1943年9月9日のイタリア降伏時に自沈して復旧工事を受けた伊豪華客船コンデ・ヴェルデが係留されており、当船の本土回航計画が持ち上がった。4月10日、寿丸と改名されたコンデ・ヴェルデを砲艦宇治、第21号掃海艇とともに護衛して上海を出港。ところが同日18時頃にウースン灯台沖で磁気機雷に触れて中破させられ、護衛任務から脱落。代役として駆逐艦蓮が護衛に加わった。4月13日に江南造船所へ入渠して応急修理を受ける。

一応の修理が終わった5月8日、シモ04船団を護衛して出港。道中には米潜水艦が遊弋していたため大きく迂回し、5月17日に山口県油谷湾へ到着した。5月27日から呉工廠で本格的な修理を受けるも、江南造船所が作ったディーゼル発電機の状態がイマイチ不良であり、代替えのディーゼル発電機もなかなか到着しないなど長らく足踏みを強いられる。7月13日になってようやく呉を出港出来たがそれでも18ノットにまで最大速力が低下。来るべき本土決戦に向けて温存すべく椿は岡山沖の備讃瀬戸へと回航された。

7月24日、香川県小豆郡土庄町豊島沖で米第38任務部隊による空襲を受けて中破し、7月28日にも再度空襲を受けている。8月15日の終戦時、呉にて中破状態で残存。11月30日除籍。機関の調子が良くなかったため復員船にはなれず、長らく放置され続けていたが、1948年7月1日より播磨造船のドックで解体されて7月28日に完了。

関連項目

  • 松型駆逐艦
  • 大東亜戦争
  • 軍用艦艇の一覧

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最終更新:2025/12/07(日) 21:00

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