楠木正成とは、鎌倉時代から南北朝時代(室町時代初期)にかけての武将である。
出生は明らかになっていない面も多いが、河内の千早赤阪村に居住した土豪出身であるという説、駿河国や武蔵国出身の御家人であるという説が存在する。
鎌倉時代末期、幕府の権力が衰え「悪党」と呼ばれる新興武士団が猛威を振るっており、正行もその流れに加わることとなる。後醍醐天皇が倒幕計画を立てるとそれに乗じ、天皇の隠岐追放後は赤坂城や千早城において多勢の幕府軍に対し少数にて奮戦した。
最終的に正成の善戦に呼応した足利尊氏や新田義貞も倒幕のため挙兵し、鎌倉幕府は滅亡、後醍醐天皇は京都への帰還を果たした。
後醍醐天皇からの信頼は厚く、「建武の新政」においては要職を務める。
しかし建武の新政への不満から、後醍醐天皇の代わりに武士の支持を集めるようになった足利尊氏と朝廷の関係が次第に悪化、遂に朝敵とされるに及んで彼との戦いが勃発する。
一時は西国に追放するも、勢力を回復して再び状況を図ろうとした尊氏と正成・義貞は兵庫の湊川で衝突(湊川の戦い)、これに敗北し正成は自害した。最期には「七生まで人間に生れて朝敵(尊氏)を滅ぼしたい」(七生報国)を唱えたと言われる。
後に尊氏が室町幕府を立て、尊氏が起こした北朝が南北朝時代に正統とされたことで、正成は朝敵とされた。
しかし室町幕府の滅亡後、名誉回復が図られ、南朝正統論が有力となると後醍醐天皇に尽くした忠臣として扱われるようになる。
明治時代から昭和初期にかけては、忠君愛国の象徴のように扱われ、子の小楠公こと楠木正行と共に「大楠公」として崇められた。「太平記」における名シーン、歴史的に見ると結構怪しい「桜井の別れ」の話も戦前の国語・修身(道徳)・国史(日本史)の国定教科書には必ず載せられていた。
「楠公さん」こと神戸市の湊川神社では主祭神とされている。
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最終更新:2025/12/09(火) 22:00
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