烈風(A7M)とは、三菱が開発した零式艦上戦闘機の後継艦上戦闘機である。
零式艦上戦闘機の後継機を、比較的早い段階で想定した帝国海軍は当初は16試。後に17試艦上戦闘機として、本機の開発を三菱重工業と共に実行。昭和19年4月に一号機が初飛行を果たした。
その結果は、操縦性は素直で良好であるものの、零戦52型を若干上回る程度の速度、戦闘機としては使用に耐えないほど遅い上昇力など、惨憺たるものであった。この結果に失望した海軍は、三菱に対して烈風の製造と開発の中断を命令。川西航空機の紫電21型(紫電改)の製造さえ命じかけた。
しかしながら、海軍が指定した中島製「誉」発動機の出力・信頼性不足を指摘した三菱は、自社負担で自社製「Mk9」空冷18気筒発動機へ換装。発動機を換装された烈風(A7M2)は、最大速度毎時624km、高度6000mまで6分5秒という、「誉」を搭載した試製烈風(A7M1)と比較にならない高性能を発揮した。
良好な運動性も維持されており、このことに驚喜した海軍は、手のひらを返すように、A7M2を烈風11型として制式採用。三菱に量産を命じた。この遅延は「誉」以外にA7M開発開始の段階で、空冷18気筒発動機の実用品が存在しなかった。自社製「Mk9」でさえ試作段階であったこと。
何よりもA7M主任開発設計技師。堀越二郎氏が零戦の改良、局地戦闘機雷電の開発も合わせて請け負い、結核を患って入院したことが致命的であった。当時の日本の技術者層は、それほどまでに薄かったのだ(とはいえ堀越二郎氏は病床からさえ、設計指示を出し続けたが)。
この点は当時。戦時体制下でありながらも、基礎工業力の薄弱なまま戦争に突入した弊害が、航空機開発の側面にも覿面に現れてしまったとも言える。無論、海軍側の航空行政の混乱。無定見も批判されるべきではあるが。
局地戦闘機「雷電」を凌駕する上昇力と速度、零戦32型・22型に比肩する運動性、素直な操縦性を持つ本機は、非常に好評であり、実戦部隊指揮官と試験搭乗員。双方を幾度もを務めた小福田少佐をして「零戦の再来」「200機の烈風があれば、戦局挽回可能」とさえ、言わしめた。
反面、実戦部隊指揮官とテスト・パイロット。双方を務めた小福田氏の視点からすれば、自らの属する帝国海軍の航空行政は余りにチグハグで「民間企業であれば三菱に訴訟を起こされ、海軍は敗訴していた」。そういった趣旨の発言も、戦後の著書の中で残している(氏は他の試作機のテストと失敗も、相当数に経験している)。
「烈風」そのものが良好な戦闘機であることに疑いはない。しかし合衆国海軍は現行艦上戦闘機のF6F「ヘルキャット」やF4U「コルセア」の性能改善を継続。加えて新型戦闘機「ベアキャット」(700km/h近い最大速度と、零戦に近い運動性能を誇る最強のレシプロ艦上戦闘機)の量産体制を進めていた。
また、合衆国陸軍航空隊も、既に高速のP-51D・P-47D戦闘機を大量に太平洋戦線へ投入しつつあり、当時の海軍航空隊の、搭乗員と整備部隊双方の急激な錬度低下。工業精度の大幅な劣化を考慮した場合、活躍が望めたかは、甚だ怪しい部分もある。実際、精鋭と謳われた343空と紫電改も、実態は苦戦の連続であった。
同時に烈風の息を吹き返させた発動機、三菱「Mk9」(陸海統一呼称ハ43)も、誉ほどではないにしても、信頼性に問題があった。加えて当時の工業基盤は東海地震を待つまでもなく壊滅状態であり、粗製乱造された場合、誉発動機と同様の末路をたどった可能性も高い。
なお、機体の外観は、愛知の艦上攻撃機「流星」と同様の角度の緩い逆ガル主翼。堀越技師の手がけた戦闘機、零戦や雷電同様、機体尾部が「点」で終わるラインを持つなど、非常に優美なものである。空力設計にも優れ、空気抵抗も極めて少ない。機体強度に関しては不明瞭な点が多いが、降下制限速度は780km/hとされる。
97式艦上攻撃機と同じサイズの巨体を持つ烈風が、上記の速度や上昇力を叩き出したのは、堀越技師の徹底した空力洗練の恩恵とも言える。武装は、99式2号20mm機銃と3式13mm機銃を各2門搭載。量産された際には、99式2号20mm機銃4門を、紫電21型と同等の火力を搭載される予定であった。
艦上戦闘機として生まれるはずが…
戦局を鑑み発動機を排気タービン付の新型へ、武装を30mmへ換装した「烈風改」も計画されており、B-29などの迎撃に威力を発揮することが期待された。当時の搭乗員の技量、大日本帝国の製造開発能力の枯渇を考えれば、実現しうる可能性は高いものではなかった。何より、艦上戦闘機として開発された「烈風」が、一応の正式化の段階では、航空母艦戦力の壊滅により「局地戦闘機」扱いであったことが、全てを示しているであろう。
陸上機と艦載機の違い。後知恵の誹りは免れないが、仮にも2000馬力級戦闘機「疾風」(キ84)を量産に漕ぎ着けた陸軍に比して、製造メーカーとの機体設計調整に失敗し、次世代戦闘機の開発に失敗した海軍航空行政。その失策の責任は、大きいものであると言わざるを得ない。
なお去る4月4日。太平洋戦争が終わってから68年が経過しようかという2013年4月。堀越二郎氏の遺品の中から、烈風改の設計図が発見された。氏を主人公とした宮崎駿氏の航空機開発映画も近づいており、このことが作中にフィードバックされるのかも、現在注目されている。
開発者、堀越二郎さんの言葉がある動画を・・・。おそらくこれは烈風の事を言っています。
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最終更新:2024/04/25(木) 11:00
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