烈風(A7M)とは、海軍三菱が開発した零戦の後継となるはずだった艦上戦闘機であり、結局、終戦までに8機だけが完成した間に合わなかった戦闘機である。
当初は十六試、後々に十七試艦上戦闘機として開発計画はスタートし、主任設計技師は零戦の生みの親、堀越二郎氏であった。2000馬力級空冷発動機を搭載する艦上戦闘機という目的自体は、海軍側の要求も間違っていない。
しかしそこで更に求められたのは「零戦並みの航続距離と運動性能」「毎時630km/h(340kt)以上の高速」「6000mまで6分以内の上昇力」「零戦以上の強武装」と、個々の要素はそれなりに妥当性があるとしても、総じて言ってしまえば「僕の考えた最強の艦上戦闘機」という無茶ぶりを、海軍側は三菱に割り振ってきたのだ。
また、往々にして烈風の特徴となる巨大な主翼に関しては、三菱側か海軍側か。どちらが主張したかは意見が分かれるが結局のところ、「NK9」発動機_つまり誉エンジンの出力で、これだけの要求を満たすには、翼面荷重を軽減させて上昇力、運動性を確保するほかなかったという、切実な問題が存在していた。
往々にして当初から三菱自社製の「Mk9」、陸海統合名称「ハ-43」発動機を採用していればという声も聞かれるが、烈風設計開始の段階では、未だに試作発動機の段階であり、海のものとも山のものともつかない代物を、将来の主力艦上戦闘機の心臓には出来なかったのである。
但し烈風は「コントロールされた墜落」といわれる離着艦を、日常的にこなすのが仕事の艦上戦闘機であり、技術的には同世代といえるF6Fも離着艦特性と運動性を重視し、烈風とほぼ同面積の主翼を搭載。翼面荷重の低さと余剰馬力の大きさで日独戦闘機を圧倒したことを考えると、一概に間違いかまでは断言できない。
零戦設計のドリームチームといえば聞こえは良いが、実際のところ、堀越技師の率いる三菱の開発チームは零戦の改良、局地戦闘機雷電の開発、そして烈風開発と三重でプロジェクトを背負っていた。三菱総体で見れば、さらに一式陸上攻撃機の製造という案件さえ加わってしまう。仮に日本が欧米並みの工業国で、相応の航空技術者の数が揃っていれば、間違い無く主任技術者を分担させていただろう。
しかし当時の日本は貧国強兵という言葉の通り、まずは軍隊が技術者を抱え込んでしまい、民間側の技術者層というのは非常に薄かったのである。その上で既存の艦上戦闘機の改良、新型局地戦闘機と烈風の開発を任せられた結果、主任技術者の堀越氏は結核を患い入院してしまい、これも大いに計画を遅延させることとなった。
副主任の曽根技師が後を継ぎ、堀越技師も病床から設計を継続したが、あまりといえばあまりのオーバーワークを前にしては、これほどの努力を払っても計画の遅延を回避することは出来なかった。この点は連合国軍相手は言うまでもなく、陸軍航空行政と比較しても、海軍の航空行政の混乱というソフトウェアの敗北といえる。
このような苦難を抱え、相当の遅延をきたしつつも烈風試作1号機は昭和19年4月に、ようやくの初飛行を果たした。そしてその結果は、戦闘機と呼ぶのもためらわれるものであった。確かに操縦性、離着陸特性は非常に良好であるが、速度は零戦52型より若干優れる程度、上昇力では寧ろ劣後し、高速域での運動性は更に酷かった。
戦後の話であるが紫電改の試験搭乗員であった志賀元少佐などは「実用化されなくてよかった戦闘機」とまで、烈風のことを酷評している。また、同時期に運転制限のかかっていない調子の良い状態の誉エンジンを搭載した紫電改が、烈風試作機を大きく凌駕する性能を発揮。三菱側は烈風開発中断、紫電改の製造を命じられる始末であった。
しかし堀越氏を中心とする開発側の懇願により、三菱側の負担ならばという条件付きで、ようやく一定数が完成していた「ハ43」に換装したA7M2、後の烈風11型の試作機が再設計の上で完成。この機体はほぼ海軍が求めた通りの性能を発揮。これに喜んだ海軍側は手のひらを返すように、三菱に烈風の量産を命じている。
これもやはり戦後の話であるが、実戦部隊指揮官を経験し、数多くの試作機のテストパイロットも経験してきた小福田元海軍少佐は「当時の海軍の態度はあまりにひどかった、もしも両者が民間同士なら海軍は訴訟で敗訴していたであろう」と、身内の現場要員からさえ批判されるあたり、一応は四式戦闘機を量産し得た陸軍と明暗がわかれている。
しかし烈風がようやく本来の性能を発揮し始め、各種試験をクリアしつつあった昭和19年末当時、本来烈風を配備するはずであった聯合艦隊はニューギニアでの消耗戦、マリアナ沖とレイテの敗北により完膚なきまでに壊滅。とうさいすべき航空母艦も、烈風を満足に操縦できる搭乗員も枯渇してしまっていた。
そのため海軍側は烈風を「A7M2」と「A」の艦上戦闘機のアルファベットを割り振りつつも、実際は陸上航空隊の局地戦闘機として以外、使い道を見つけることは出来なかった。加えて昭和20年の東海大地震により三菱の航空機、発動機工場が壊滅。一応、性能向上型の設計は継続されたが、どうあがいても実用化は完全に不可能となった。
かくして試作8機に終わった新型艦上戦闘機は終戦を迎え、連合軍による接収を避けるため、そのほとんどすべてが海没処分や分解処分を受け、現在では烈風の改良型、局地戦闘機型の青写真が残るのみである。なお、この局地戦闘機としてさらに改設計された機体は、排気タービンや30mm機銃さえ搭載する予定だったといわれる。
テストパイロットを務めた小福田元少佐をして、烈風11型の性能は「本機200機あらば戦局挽回も可能」と言わしめるほど、非常に良好なものであったのは間違いない。実際、米海軍のF6FやF4Uを相手にしても、万全の状態で戦えば遜色を大きく見ることはなかっただろう。堀越技師も「最初からMk9を使っていれば」と戦後、悔恨の言葉を残している。
しかしこの「Mk9」も誉よりはマシという程度の、非常に精緻で量産の難しい、「世界最小にして最大出力の発動機」という、日本の工業基盤からすればコンセプトからして破綻したものであった。実際、性能そのものは良好であっても、烈風11型は度々発動機の振動問題、冷却不良を起こしており、このことについては小福田元少佐も苦言を呈している。
実用化されていれば確かに失敗よりは望ましいものの、当時、零戦でさえカタログスペック通り稼働するものが2割程度という工業基盤、整備部隊の練度低下、物資不足を考えれば、カタログスペックこそ優秀であっても、実用性重視の米海軍のF6Fや、あらゆる日本戦闘機の天敵であったP-51ムスタングに太刀打ちできたかは、困難と思われる。
日本海軍は次世代航空機の発動機を誉に統一、製造と整備の画一化を極力目指す。あるいは地道に各種航空機の艤装品の性能改善を図るなど、相応の努力は確かに払っていた。しかし戦局に対応した航空行政とはお世辞にも言えず、それは戦闘機から陸攻に至るあらゆる機種に及んでおり、烈風はその最たるものであったといえよう。
「仮にあそこでああすれば」という小手先の問題ではなく、航空技術に関する高等教育を受けた人間の少なさ、工業基盤の壊滅、戦局の悪化に比例しての航空行政の混乱といった、その流麗なデザインに反して、ある意味で壊滅しつつある海軍航空隊を体現したような戦闘機であった。
但し一定の弁護を行うとすれば、大出力発動機と翼面荷重の低い主翼、それによる高い上昇力と運動性、操縦性の容易さは確かに群を抜き、これほどの悪条件の中で試作機だけでも完成させたことは、三菱側の現場担当者の努力の結晶である。純然たる航空機としてみれば、烈風は良質な航空機であった。量産できないことを除けば、だが。
開発者、堀越二郎さんの言葉がある動画を・・・。おそらくこれは烈風の事を言っています。
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最終更新:2024/04/26(金) 02:00
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