田中賢介(たなか けんすけ)とは、日本の福岡県出身のプロ野球選手である。
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東福岡高等学校時代は村田修一、大野隆治とチームメイトだった。1998年に松坂大輔率いる横浜高等学校と対戦し、完封負けし敗退したが1安打を放った。1999年にドラフト2位で日本ハムファイターズに入団。ちなみに2位指名だが中日ドラゴンズ・西武ライオンズと3球団競合だったりする。
2002年、2003年は一軍二軍を行き来し、2004年は故障でリタイアした。2005年も22試合しか出場できなかったが、最終戦でサヨナラホームランを放った。
2006年は木元邦之、川島慶三との競争を制しセカンドのレギュラーに定着。2番打者として最多犠打を記録し「森本が出て賢介が送る」のが日本ハムの攻撃パターンになった。規定打席に到達して25年振りのリーグ優勝、日本一に貢献し、ゴールデングラブ賞とベストナインを受賞。
2006年6月3日以降全試合に出場していたが、2010年8月15日に欠場し、歴代29位の620試合でストップした。2番以外にも、パンチ力を買われての3番起用や、森本稀哲の離脱で1番に入ることも多くなった。本人は3番を打つのが目標だったらしい。
2009年から選手会長となる。シーズンを通して1番打者として活躍、パ・リーグ史上最多の680打席に立った。規定打席到達者の中で唯一併殺打0のままシーズンを終えた。
2010年は143試合に出場し、シーズン打率.335、193安打と自己最高の成績を残した。
2011年は6月18日の広島東洋カープ戦で左足距骨を骨折。全治4~6ヶ月と診断されシーズン絶望となり、49試合の出場に留まった。クライマックスシリーズでは何とか復帰したものの、決勝点に繋がるエラーを犯してしまった。
2012年も1番もしくは3番で好成績を残していたが、8月29日の西武戦で左腕を骨折し2年続けて途中離脱。今度は日本シリーズにも間に合わなかった。
オフ、メジャー挑戦を目指してFA宣言し、サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約。
2013年は開幕をマイナーで迎えたが、7月9日にメジャー昇格。ジャイアンツでは左翼手として起用されている。
| 日本ハム 応援歌 |
(2012年終了時点)
| 通算:13年 | 試合 | 打席 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 1079 | 4278 | 3674 | 1052 | 39 | 325 | 161 | 168 | 25 | 372 | 37 | 588 | .286 | .356 |
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最終更新:2025/12/08(月) 08:00
最終更新:2025/12/08(月) 07:00
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