艦隊これくしょん~艦これ~の艦娘・白雲とは、大日本帝国海軍・吹雪型駆逐艦「白雲」の擬人化キャラクターである。
図鑑番号:564
| 薄雲 | |
|---|---|
| 艦種/艦型 | 吹雪型駆逐艦 8番艦 |
| 造船技官(絵師) | しばふ |
| 艤装員長(CV) | |
| 実装日 | 20223.8.9 限定海域突破報酬 |
| 建造 | 不可 |
| 通常海域 | 未実装 |
「白雲」は吹雪型姉妹9人目の実装艦で同姉妹の8女である。2023年夏イベ「船団護衛!輸送航路防衛戦」第4海域(前段作戦最終海域「北海道釧路厚岸沖」)で実装された。同年春先から「新たな吹雪型駆逐艦の実装」、北海道では初となるリアイベの実施、カレー機関での「White Cloud Princess」シールの頒布など、”白雲”を意識した情報が徐々に解禁となった上での、待ちに待った実装となった。ぱっと見同じ藤永田造船所で戦象された「叢雲」がしばふ氏担当吹雪型姉妹のセーラー服を着用したような容姿で(髪型は「叢雲」よりも「初雪」のほうが近いかもしれない)ある。なお、当該イベント前段バナーは朝雲・薄雲・霞・白雲の4人…つまり第五艦隊第一水雷戦隊第九駆逐隊の四人である。(但し、白雲戦没の時期は朝雲が10駆に去り、代わりに不知火が編入している。)
狭義の吹雪型としては10女浦波、7女薄雲に続く3人目の追加実装艦である。
初期所属の第十二駆逐隊では3人目、編入先のうち第二十駆逐隊でも3人目、第九駆逐隊では最後の実装艦である。
特に、第5代第九駆逐隊及び戦中の第五艦隊第一水雷戦隊は白雲の編入により全艦が集結したことになる。
先に艦娘になった薄雲にとっては「いつか会える」と言及していた12駆及び9駆時代の僚艦で、あまり触れられる機会がなかったが叢雲にとっても12駆開戦時の僚艦であり、これによって、ようやく叢雲は開戦時編成で「ぼっち」を卒業したことにる。20駆としても狭霧との入れ替わりではあるが3人目の実装であり、天霧の僚艦の一人でもある。
一方、第十二駆逐隊は東雲、第二十駆逐隊(結成時第八駆逐隊)は朝霧・夕霧の実装が残されており、この3隻が艦娘として実装されれば吹雪型駆逐艦全24隻及び開戦時第三水雷戦隊全艦が揃うことになる。引き続き彼女らの実装を希うものである。
能力は普通の吹雪型駆逐艦の範疇であるが、改装に要するLvが僚艦「薄雲」と同じLv40での改装となっている。
| 白雲(吹雪型駆逐艦) | |
|---|---|
| 建造船渠 | 藤永田造船所 |
| 進水 | 1927.12.27 |
| 竣工 | 1928.7.28 |
| 最期 | 1944.3.16 |
| 除籍 | 1944.3.31 |
| 艦籍 | 呉鎮守府 |
| 所属部隊 | 第十二駆逐隊(ii) →第二十駆逐隊(ii) →第九駆逐隊(v) |
駆逐艦「白雲」(建造当初「第42号駆逐艦」)は、吹雪型駆逐艦8番艦として1927年(昭和2年)12月27日藤永田造船所にて進水、翌1928年(昭和3年)7月28日に就役。就役直後の8月1日、第1号(神風)以降の番号による駆逐艦名が一斉に固有艦名に改められ、本艦は「白雲」と命名された。
改名と同時に東雲・薄雲と呉鎮守府によって第十二駆逐隊を編成し、同年12月1日には第二水雷戦隊に編入された。(当時の二水戦旗艦は「鬼怒」。他11駆と23駆(翌年19駆に交代))1929年(昭和4年)5月、藤永田造船所で並んで建造されていた叢雲が就役し12駆に編入された。
1931年(昭和6年)12月、日米英3国間で締結されたロンドン海軍軍縮条約の規定により特型駆逐艦(や同規模の新型駆逐艦)の保有規模が制限されることとなったため、特型駆逐艦による駆逐隊は3隻編成に改められ、12駆からは東雲が新たに編成された初代20駆(編成は吹雪・東雲・磯波)に転出し、12駆は白雲・薄雲・叢雲の3隻編成となった。その後12駆は二水戦旗艦が神通→那珂→神通と交代しながらも1938年(昭和13年)12月までは二水戦に所属していた。
1940年(昭和15年)5月1日、川内及び12駆・2代目20駆(結成時は8駆)により第一艦隊第三水雷戦隊を新設、第二遣支艦隊に編入され、華中での沿岸作戦(当該作戦中に薄雲が日本軍が敷設した機雷に接触し大破、修理のため12駆より除籍される)、北部仏印進駐作戦に従事した。
1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦時、三水戦(前述の12駆・20駆のほか11駆・19駆の4駆逐隊によって編成)所属の12駆は馬来部隊に属し南方作戦に伴うマレー作戦に従事していた。12月17日、僚艦東雲がボルネオ島攻略作戦で空襲により戦没。12駆は白雲・叢雲の2隻になった。1942年(昭和17年)3月のバタビア沖海戦では最上・三熊・五水戦との共闘で米重巡ヒューストン、豪軽巡パース等の撃沈に貢献。3月10日、12駆は解散され、叢雲は深雪の欠員補充として11駆に、白雲は前年12月に戦没した狭霧の欠員補充として20駆にそれぞれ編入した。人見豊治中佐(開戦時の白雲駆逐艦長)は舞鶴工廠の巻波艤装員事務所に異動となり艤装員長に、引き続き同艦駆逐艦長としてその最期(セント・ジョージ岬沖海戦にて戦死)を共にしている。
編入された20駆は三水戦旗艦川内と共に南東方面艦隊隷下となり、同じく隷下に加わっていた二水戦24駆らとガダルカナル島への兵員輸送に従事したが、8月28日、ヘンダーソン飛行場から飛来したSBDドーントレスの攻撃により20駆司令艦の朝霧が戦没し20駆司令らが戦死、白雲・夕霧も損傷を受けた。僚艦天霧や応援に駆けつけた二水戦15駆陽炎に護衛されショートランド泊地に帰投、作戦は失敗に終わった。10月1日、第20駆逐隊も解散となり、健在の天霧は11駆に、夕霧も白雲同様修理の後11駆に編入となった。
白雲は応急修理ののち敷設艦津軽に曳航され呉に帰投、呉海軍工廠と故郷の藤永田造船所での修理となった。藤永田造船所では当時夕雲型大波の艤装工事が進められており、平山敏夫少佐は白雲駆逐艦長と大波艤装員長の兼務を命じられた。(なお、大波の艤装員長は夕立戦没後の吉川潔中佐が着任し引き継いでいる。)
1943年3月に修理を終えた白雲は、4月1日、日華事変で損傷し離れ離れになっていた就役当時の僚艦薄雲と共に第五艦隊第一水雷戦隊第九駆逐隊に編入した。この異動で9駆の編成は最後のスタメンである朝潮型・朝雲と吹雪型の薄雲・白雲の3隻編成となった。
5月のアッツ島の戦いで第五艦隊は洋上で沼風・神風による特攻揚陸作戦を準備していたが洋上でアッツ島部隊からの玉砕電を受信、作戦は中止され艦隊は幌筵島に戻った。
6月、1駆神風・沼風はカムチャッカ半島沖で対潜警戒を行っていたが、これに白雲・薄雲が加わった。が、ここで白雲が沼風と衝突事故を起こし、朝雲と若葉の救援を受けながら幌筵島に戻った。沼風・白雲は修理を受けることとなり、白雲は当時実施中の北方ケ号作戦(キスカ島撤退作戦)に加わることはできなかった。
9月1日、舞鶴工廠で修理を受けていた朝潮型・霞の修理が完了し、9駆に編入された。また、9月25日には白雲の修理も完了し、9駆は久しぶりに4隻編成となったが、10月末、今度は9駆最後のスタメン・朝雲が10駆に転出、9駆は呉を母港とする霞・白雲・薄雲の3隻編成となった。3隻は各々修理や整備、護衛任務を行いつつ厳しい北方での日々を過ごした。
1944年(昭和19年)1月、藤永田造船所で建造中の秋霜の艤装員長として平山少佐は転出し、漣の駆逐艦長を発令されていたものの、漣の戦没により着任できなくなった砲艦「隅田」の橋本正雄少佐が新たな白雲駆逐艦長となった。
2月、損傷した雲鷹の護衛に参加後、ようやく9駆3隻が大湊で合流、訓練を実施した。3月1日、9駆に修理完了の陽炎型・不知火の編入が発令されたが、不知火の合流を待たず3月14日、輸送船4隻を護衛し霞・白雲・薄雲は北海道から千島列島・得撫島へ向かった。3月16日午後11時35分、北海道厚岸町愛冠岬沖60kmの地点にて米潜「トートグ」の雷撃により白雲は撃沈された。北の冷たい海中に投げ出された乗組員は為すすべもなく総員が戦死した。(薄雲・霞は護衛作戦を継続せざるを得ず白雲乗組員の救助にあたれなかった。)木村昌福一水戦司令官は初春に将旗を掲げ隷下駆逐艦や海防艦国後らを伴いトートグらを掃討したが白雲や前年春同じトートグに斃された磯波の敵を討つことはできなかった。
3月31日、白雲の除籍とともに第9駆は隊名を第十八駆逐隊と改められた。(以降18駆の戦歴は霞・薄雲の記事を参照願いたい。)
| 吹雪型姉妹 / 吹雪型駆逐艦 |
|---|
| 1.吹雪- 2.白雪- 3.初雪- 4.深雪- 5.叢雲- 6.東雲- 7.薄雲- 8.白雲- 9.磯波- 10.浦波 |
| 2023年夏イベント 新規実装艦娘 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
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最終更新:2025/12/10(水) 05:00
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