的を得る 単語


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マトヲエル

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的を得る」とは、議論の種である。

概要

(以下の記述は『メモ 2013.10.10~』様のカテゴリ:的を得るに多くを依拠しています。おそらく当該サイトを見る方が確実です)

的を射る」という表現は、広辞苑にも存在する正しい表現である。

では、「的を得る」はどうだろうか?現在のところ、『広辞苑』(第五版)を始めとして、『大辞泉』、『大辞林』といった名だたる辞典にも、「的を得る」の語句は載っていない。

この原因は見坊豪紀が編集した『三省堂国語辞典』第3版(1982年)が『「的を得る」は「的を射る」の誤用』とわざわざ記載したことにあると考えられる。

しかし、これが誤りであるとは一概には言えない。というのも、古代中国に編纂された四書五経で既に、どこか似たような表現がちょくちょく出てきているからだ。

例えば『礼記』射義では「循聲而發、發而不失正鵠者、其唯賢者乎」という一文がある。要は「音にノって弓を射っても中心に当たる奴って賢者だよなー」程度の意味合いだが、「不失正鵠」を読み下せば「正鵠を失わず」となる。

例えば『中庸』では「射有似乎君子。失諸正鵠、反求諸其身。」という一文がある。要は「弓射るのって君子と似たとこあるよねー。中心に当たらなければ自分に原因求めるし。」程度の意味合いだが、「失諸正鵠」を読み下せば「諸を正鵠を失いて」となる。

この辺が「失わない→得る」と転じれば「正鵠を得る」となる訳だが、どうだろう、「的を得る」と「正鵠を得る」、すごく似た感じがしないだろうか。するよね?そうだね。

(ちなみに「正」「鵠」は古代中国で弓射の儀式に使われた的のことで、2つが合体した「正鵠」は的の中心の黒点を意味している。余談だが、大学弓道では「星的」を使っているので「正鵠」をイメージしやすいが、高校弓道では「霞的」を使っているので、これをイメージしづらい。)

「正鵠を得る」がいつから使われるようになったかは判然としないものの、少なくとも明治半ば頃には広く使われていたようで『国家生理学』(文部省がドイツの医学書を和訳したもの。1882年)の「此説ノ正鵠ヲ得タルハ…」や、『内部生命論』(北村透谷著、1893年)の「世道人心を益するの正鵠を得るもの」などが見つかっている。少し後の1906年発行の辞書『俚諺辞典』で「的を射る」は「所謂正鵠を得たる義なり」と解説されており、「正鵠を得る」の言い回しが先に広まっていたものと思われる。「正鵠を得る」は明治から戦前まで人口に膾炙しており、新聞を用いた用例調査では「的を得る/射る」「正鵠を射る」を遠く引き離して(およそ100倍以上)圧倒的に多く用いられていた。

だが、「正鵠」を「的」と置き換えて、「的を得る」はあったと言って良いのだろうか?これが非常に悩ましい問題である。確かに「正鵠」を「マト」と読む例は古くからあり、例えば『西国立志編』(中村正直訳、1871年)は「一樹ヲ正鵠トスル」の「正鵠」に「マト」と左にルビを振っている。ただし上記も含め、「マト」と振り仮名を振っているのは「正鵠」が弓の標的を指す場合だけで、「正鵠を得る」の「正鵠」に「マト」とルビを振っている例は(少なくとも今のところ)見つかっていない。さらにさらに、「的を得る」そのものはいつから使われているかというと、江戸時代の方言を集めた『尾張方言』 (山本格安、1748年)に1件あるものの他の例が全く見つからず、かなり時代を下って1930年代に入りようやく用例が見つかるという状態である。

ここで「的を射る」の方は?という話をしたい。「的」を「射る」、つまり標的に向かって弓を射る意味では当然古く、13世紀にはすでに使われていた。「正鵠を得る」と同じ意味で使われる例はそれよりずっと新しく、上にあげた『俚諺辞典』が一番古く1906年、それ以降の例は1920年代から見られるようになる。話が少しズレるが、『正鵠を射る』の方も『正鵠を得る』と同じぐらい古い用例が見つかっている。

そう、今見つかっている用例を見る限り「的を射た」は「的を得た」より(『尾張方言』を除外するなら)ずっと古くから使われていた。だが「的を射た」と「正鵠を得る」を比べれば「正鵠を得る」の方が明らかに古い。つまり「『正鵠を得る』から『的を得る』に派生するより先に、ぱっと見無関係の『的を射る』が成立・伝播してた」のである。なんだこれ。しかも『尾張方言』が誤記でないと考えた場合、「的を得る」は「江戸時代中期に忘れ去られたけど200年近く経って突然復活した。でも復活前にもう『的を射る』はあった」ということになる。なんだこれ。

…以上のように、「的を得た」を誤りと言い切るのはおかしいが、かといって成り立ちを説明しようとするとなんもわからん状態になる、なんとも微妙かつ難しい言葉なのである。もちろん言葉狩りが無益なのは言うまでもないが、「『正鵠を得た』という表現があるから正しい!」と簡単な結論で片付けてしまうのも、それはそれで「的外れ」で「正鵠を失した」考えと言えるだろう。

なお2013年12月、誤用説の大元であった三省堂国語辞典が第7版において「◆的を得るは誤用ではない」として撤回した。
現行の三省堂国語辞典では「的を得る」が見出し語として独立していることは付記しておきたい。
現在の編集委員である飯間氏のTwitter

「新し(あらたし)」と「惜し(あたらし)」(全く項目と関係ない余談)

忘れてはならないのは、こうした言葉の変動は有史以来続いているということである。

例えば、「新しい」という言葉がある。この語の読みは「あたらしい」であるが、冷静に考えればおかしな読みである。「新」という字の訓読みは「あらた」であり、本来は「あらたしい」の方が正しいはずである。

実はこのことは、平安時代に既に言葉の乱れとして認識されていた。

実際、古来より「あたらし(惜し)」という語がすでに存在し、「もったいない」という意味であった。一方、平安時代以前の「新しい」に該当する言葉は「あらたし(新し)」であった。

ところが、次第に「あらたし(新し)」を「あたらし」表現する者が増え、両者が混同されるようになり、競合の末に「あたらし(惜し)」の方はすっかり廃れてしまった。「新しい」を「あたらしい」と読むのは、この名残である。

このように、正しい言葉などというものは時代によって変動するのであり、未来永劫正しい表現など存在しないのである。

「あらたし」が「あたらし」になるのだから、「なぜ殺たし」が標準語になる日も、いつか来るかもしれない。

議論になりそうな語句一覧

  • 「役不足」(意味)
  • 「さわり」(意味)
  • 「負けず嫌い」(意味)
  • 「弱冠」(意味)
  • 「情けは人のためならず」(意味)
  • 「確信犯」(意味)
  • 「奇特」(意味)
  • 「火蓋を切って落とす」(表現)
  • 「汚名挽回」(表現)
  • 「シュミレーション」(表記)
  • 「雰囲気(ふいんき)」(読み)
  • 「そのとうり」(表記)
  • 「こんにちわ」(表記)
  • 「すいません」(表記)

(自由に追加してください。)

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関連項目

  • こまけぇこたぁいいんだよ!!
  • 細かい事が大切です
  • なぜか変換できない
  • 日本語の誤用

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