「的を得る」とは、議論の種である。
「的を射る」という表現は、広辞苑にも存在する正しい表現である。
では、「的を得る」はどうだろうか?『広辞苑』(第五版)を始めとして、『大字泉』『大字林』といった名だたる辞典にも、「的を得る」の語句は載っていない。
しかし、これが誤りであるとは一概には言えない。『正鵠を得る』という、これまた正しい表現があるからである(しかも、この言葉は中国・春秋時代の『礼記』などにある、「的を射る」よりも古い言葉である)。「正鵠」とは、的の中心の黒星のことであり、「的を射る」よりも、より良く的を射ているということになる。
(余談だが、大学弓道では「星的」を使っているので「正鵠」をイメージしやすいが、高校弓道では「霞的」を使っているので、これをイメージしづらい。)
だが、「正鵠」を「的」と言っていいのだろうか?未だに名だたる辞典に「的を得る」の言葉が載っていないことから、まだこの言葉は議論の余地があると思われる。
つまり、「的を得る」という表現は、一概に非難するのも誤りであり、かといって正しい表現であると主張するにはまだ議論の余地がある、そんな微妙な状況なのである。
要するに、こまけぇこたぁいいんだよ!!
忘れてはならないのは、こうした言葉の変動は有史以来続いているということである。
例えば、「新しい」という言葉がある。この語の読みは「あたらしい」であるが、冷静に考えればおかしな読みである。「新」という字の訓読みは「あらた」であり、本来は「あらたしい」の方が正しいはずである。
実はこのことは、平安時代に既に言葉の乱れとして認識されていた。
実際、古来より「あたらし(惜し)」という語がすでに存在し、「もったいない」という意味であった。一方、平安時代以前の「新しい」に該当する言葉は「あらたし(新し)」であった。
ところが、次第に「あらたし(新し)」を「あたらし」表現する者が増え、両者が混同されるようになり、競合の末に「あたらし(惜し)」の方はすっかり廃れてしまった。「新しい」を「あたらしい」と読むのは、この名残である。
このように、正しい言葉などというものは時代によって変動するのであり、未来永劫正しい表現など存在しないのである。
「あらたし」が「あたらし」になるのだから、「なぜ殺たし」が標準語になる日も、いつか来るかもしれない。
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最終更新:2025/12/09(火) 13:00
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