真田昌幸 単語


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真田昌幸とは、日本の戦国時代の武将である。一時期、武藤喜兵衛とも。

概要

真田昌幸(1547年-1611年7月13日)は、信濃の真田幸隆の三男として生まれた。
幼少時に武田家への人質として出され、武田晴信(信玄)の近習として育つ。
その才智と武勇を信玄に愛され、武田一族に連なり家系が絶えていた武藤家へと養子に入り武藤喜兵衛を名乗った。
長篠の戦いで真田家を継いでいた長男・信綱と次男・昌輝が討死すると、三男の昌幸が真田家を継ぐことになり再び真田姓に戻る。

武田勝頼の死によって武田家が絶えると、真田家は織田信長の下へ入る。
しかし、直後に信長が横死してしまい、その後は北条家・徳川家・上杉家と次々と鞍替え。
最終的には上杉を通して羽柴秀吉に臣従した。
次男の信繁(幸村)はこのとき秀吉の下へ人質として出されている。

秀吉の死後、関が原の戦いの際には信繁とともに石田三成側(西軍)へとつき、上田城にて徳川秀忠軍およそ4万をわずか2千の兵で足止め。
この戦いにより真田の強さが全国に広まったのである。
西軍敗退にともない昌幸と信繁は高野山近く九度山に蟄居を命じられ、昌幸はその地で病没した。

人物像

昌幸を表現した言葉として、「小信玄」「我が両眼の如し(信玄から)」「表裏比興の者(くわせもの、秀吉から)」「信玄の懐刀」などがある。
現代では息子の信繁(幸村)の名が有名となり昌幸はその父という印象が強いが、これはその後の講談などによって付けられたものであり当時の知名度としては圧倒的に昌幸が上だったと思われる。
謀略・武勇ともに長け、攻城戦に滅法強かった。
城作りの名人でもあり、上田城のほか韮崎の新府城をも築城している。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける真田昌幸の一覧。「チート親子」の親の方である。
軍事 内政
群雄伝(S2) 戦闘 96 政治 89 79 野望 81
武将雲録(S1) 戦闘 90 政治 86 76 野望 72 教養 78
覇王 采配 91 戦闘 79 智謀 93 政治 92 野望 89
戦才 164(A) 智才 196(A) 政才 180(A) 85 野望 91
戦闘 78 智謀 97 政治 91
烈風 采配 93 戦闘 68 智謀 94 政治 88
世記 采配 88 智謀 86 政治 87 野望 89
統率 88 知略 86 政治 82
下創世 統率 87 知略 86 政治 81 教養 71
統率 97 武勇 76 知略 98 政治 91
天道 統率 97 武勇 76 知略 98 政治  91

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戦国大戦の彼は2コス騎馬、武力6統率9とやはり統率よりの武将となっており、武田軍では持っている武将が少ない制圧を持っている。計略は信玄の炯眼。敵の武力と統率の変化を全て戻す妨害陣形。範囲は狭いが本人が騎馬隊なのでそこまで気にはならない。そして効果時間は異様に長い。昌幸がいるだけでほとんど何もできないデッキもあり、武田のメタゲームとしての重要存在となっている。
大抵お館様である武田信玄(瀬田)と一緒に行動しており、武力上昇はそれほどでもない瀬田に旗をの弱点である超絶強化を昌幸で阻止するという役目となっており相性が良い。
なお息子の幸村も既に戦国大戦で参戦している。ただしBASARAの方で。

関連項目

  • 歴史
  • 真田信之
  • 真田幸村
  • 戦国時代の人物の一覧

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