稗田阿礼とは、『古事記』の編纂に携わったとされる人物である。
稗田阿礼に関する史料は、『古事記』序文の以下の文章しか存在していない(一部現代仮名遣いに修正)。
時有 舎人。 姓稗田、名阿礼。 年是廿八。 為 人聡明、 度 目誦 口、 拂 耳勒 心。
二 一 レ レ レ レ レ即、勅_語阿礼、 令 誦_習帝皇日継及先代旧辞。 然、運移世異、 未 行 其事 矣。
二 一 レ 二 一 レ 二 一
(超おおざっぱな現代語訳)
その時、ある舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼という。年齢は28歳。
人となりは聡明で、目で見たものは口でそらんじることができ、耳で聞いたことは心に刻むことができた。
そこで(天皇は)阿礼に勅語して、「帝皇日継」と「先代旧辞」を誦習させた。
しかし、時代が移り変わったため、そのことは未完成のまま終わった。
『古事記』序文以外には、稗田阿礼について記述している史料がないため、阿礼の人物像には謎が多い。
大まかにまとめると、以下のような説がある。
稗田阿礼は━┳━実在するよ派━━┳━男性だよ派
┃ ┗━女性だよ派
┗━実在しないよ派━┳━架空の人物だよ派
┗━藤原不比等だよ派
『古事記』序文に書かれていることを信用すると、以下のような人物像になる。
聡明な記憶力を買われて、天武天皇の舎人(とねり)として仕えるようになった。
天武天皇十一年の頃(と推測される)、二十八歳にして『古事記』編纂に携わった。
『古事記』編纂事業は一度中断し、その後、和銅四年から五年にかけて完成。
一緒に編纂事業には関わった太安万侶は、『古事記』完成時、「正五位上 太朝臣安万侶」である。
しかし阿礼は、ただの「稗田阿礼」であり、要するに何の栄誉も記されていない。
卑しい身分の出身だったのか?
上と似たような疑問点で、畿内の名族の一覧辞典「新撰姓氏録」に掲載されていないということは
「稗田氏」は、朝廷に仕えるような名士の一族ではなかった可能性が高い。
※ただし、古事記編纂を命じた天武天皇は、旧来の豪族層以外からも積極的に人材登用を行っている(天武五年勅令など)ため、このことが直ちに稗田阿礼の実在を疑う説に繋がるわけではない。
柳田國男、三谷栄一などが提唱した説。
というような理由から、稗田阿礼=神話を口伝する巫女だったのではないか、という説。
そうした巫女の中から特に優秀な人物が『古事記』編纂のため、天武天皇に抜擢されたとしても不思議ではない。
⇒ 「舎人」は男性の職業である。天皇に仕える女性は「うねめ(采女)」もしくは「ひめとね(宮人)」で、例え阿礼が「ひめとね」であったとしても、「舎人」という字をあてるのはおかしい。
そもそも『古事記』の序文がうさんくさい、という一派。
以上のような点から、『古事記』の本文は別にしても、「序文」は、平安時代以降に創作された疑いがある。(大和岩雄『古事記成立考』など)そうなると、「序文」以外に名前の出ない稗田阿礼も、架空の人物であるという可能性が出てくる。
稗田阿礼と同じく、太安万侶も「他の史料に名前が出てこない!」と言われていたが、木簡が発掘され、実在が確認された。そうなると、序文の内容も「完全に創作というわけではない」と思われる。
梅原猛の説。
このため、いわゆる国史学会からは、梅原猛の説は「トンデモ」的な扱いをされている。
一応梅原氏のために弁護しておくと、梅原氏の特徴は「現代日本史学の史料至上主義を批判する」ことにあり、
「『古事記』には藤原不比等の名前は出てこない! 史料にないから編纂に関わっていない!」と断定してしまうことに対して疑問を呈しているのである。
史料に残らなかったとはいえ、当時の権力者が自分に都合のよいように歴史・神話を改変した可能性もじゅうぶん考えられるはずだ、というのが氏の主張の骨子である。
この辺を反論されると記事作成者にも擁護できません。
東方projectの登場人物「稗田阿求」が、阿礼の転生した人物だという設定であり、稀にその名前を見かける。日本神話の祖であるため、神話関連の動画でたまにその名前を見かける。
| 瀧口泰行 | 「古事記撰録の周辺」 |
|---|---|
| 尾畑喜一郎 | 『記紀万葉の新研究』桜楓社 収録 |
| 柳田國男 | 「稗田阿礼」 『柳田國男全集11』収録 |
| 三谷栄一 | 「古事記の成立――後宮と神祇官の文学」 菅野雅雄 『古事記成立の研究』収録 |
| 大和岩雄 | 『古事記成立考』大和書房 |
| 梅原猛 | 『神々の流竄』集英社 |
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最終更新:2025/12/09(火) 13:00
最終更新:2025/12/09(火) 12:00
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