竹(松型駆逐艦) 単語

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竹(松型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造した松型駆逐艦二番艦である。小柄ながらも武功を立てた艦で終戦まで生き残っている。

概要

艦のスペックや建造の経緯は松型駆逐艦を参照の事。

艦名の由来はイネ科の植物のから。この名を冠する艦は、本艦で二代目となる。諸元は基準排水量1262トン、全長100m、全幅9.35m、速力27.8ノット、喫水3.3m、出力1万9000馬力、乗員211名、航続距離3500km(18ノット)。排水量がぎりぎり1000トンを超えているため、かろうじて一等駆逐艦に含まれる。武装は12.7cm単装高角砲1門、12.7cm連装高角砲2門、25mm連装機銃4門、25mm単装機銃12門、61cm4連装九二式魚雷発射管1門、九四式爆雷投射機2基。

余談だが、先代と二代目の竹はともに終戦まで生き延びている。縁起の良い名前である事は間違いない。

誕生から輸送作戦

1942年度戦時建造補充追加計画(改⑤)で、丁型駆逐艦5482号として建造が決定。1943年10月15日、横須賀工廠で起工。1944年1月25日に駆逐艦竹と命名され、横須賀鎮守府所属と仮定。3月28日に進水し、6月16日に田中艦長の下で竣工した。竣工後、第11水雷戦隊に編入される。後の勇者が静かに産声を上げた。

7月1日、横須賀を出港し呉へと回航。瀬戸内海で慣熟訓練を行う。戦局の逼迫は、生まれたての竹を待ってはくれなかった。7月8日、沖縄への輸送作戦こと呂号作戦の戦力に選ばれる。7月13日、門司に寄港し姉妹艦の松、梅、桃と第43駆逐隊を編成。二日後、大分県中津湾に寄港したのち沖縄へ向けて出港。17日に沖縄の中城湾に到着し物資を揚陸。翌18日23時に出港。既にこの海域にも米潜水艦が進出してきており、危険な航海だった。駆逐艦冬月とともに南大東島へ第28師団の兵員を揚陸させ、中城湾を経由して呉へと戻った。

8月1日、第43駆逐隊は第二遊撃部隊に編入。対潜掃討の役割を担った。パラオへの回航を命じられ、駆逐艦清霜とともに関門海峡を抜けて経由地の台湾に向かっていたが、佐世保近海を航行していた軽巡名取が米潜水艦の雷撃を受けて沈没。これを受けて8月18日に名取の乗員を救助している。2日後、第43駆逐隊に軽巡五十鈴を迎え、第31戦隊を編成する。清霜と分かれた竹は単艦で行動、セブ島から避難する邦人を収容して8月26日にパラオへ入港。物資を揚陸していたが、米軍機の襲来があったため対空戦闘を行っている。パラオからの引き揚げ者を収容中、付近のガルアングル島南西端で駆逐艦五月雨が座礁。乗員救助のため同日夜に出発し、現場に向かった。8月30日からは南西方面艦隊の指揮下に入り、マニラ方面で船団の護衛に従事する。

10月4日、竹はマニラ発ミリ行きのマミ11船団の護衛を務める。ここで竹は、南方がいかに危険な海域であるかを嫌ほど思い知らされる。翌5日午後、ミンドロ島マンブラオの南西で米潜水艦コッドに捕捉され、6本の魚雷によって熱田丸と荒尾山丸が被雷。コッドの追跡は続き、2時間後に再度雷撃を受けて辰城丸が撃沈されてしまった。それでも何とか敵潜を振り切り、マニラまで辿り着く事には成功した。

10月20日23時40分、竹はマニラ発高雄行きのマタ30船団を駆逐艦春風、呉竹、第20号駆潜艇とともに護衛して出港。この船団は12隻で構成された大規模なもので、別名春風船団とも呼ばれていた。船団は三列縦隊となり、春風を先頭に航行していた。しかし23日、ルソン島北端沖で米潜ドラム、ソーフィッシュ、アイスフィッシュ、スヌーク、シャーク、シードラゴン、ブラックフィッシュからなる二個ウルフパックに捕捉されてしまう。正午頃に特設水上機母艦君川丸が潜望鏡を発見し、全艦に通報したが手遅れだった。17時30分、ソーフィッシュが君川丸を撃沈したのを皮切りに地獄の宴が開幕した。ここから米潜が次々に襲いかかり、黒龍丸、菊水丸、天晨丸、信貴山丸、大天丸、第一眞盛丸、營口丸、阿里山丸の順で撃沈。あっという間に船団の半数以上を失う惨状となった。竹が残存船舶の避難誘導を行い、春風が対潜掃討を実施して反撃。シャークを撃沈して一矢報いたものの、出発時には12隻いた輸送船が僅か3隻にまで減ってしまった。道中の10月24日、高雄沖で撃沈された營口丸と第一眞盛丸の乗員を救助。同日中に高雄へと入港し、再びマニラに舞い戻る。

レイテ沖海戦が行われている10月25日、バシー海峡で沈没した陸軍輸送船団の救援のため駆逐艦3隻を率いて急行。陸兵約540名を救助した。彼らをアパリと高雄に送り届け、再び遭難現場に向かう竹だったが途中でマニラに向かうよう命令が下る。

10月28日、マニラ入港。そこでは悪夢のオルモック湾輸送作戦が待っていた。

オルモック緊急輸送作戦

1944年10月23日に生起したレイテ沖海戦は帝國海軍の大敗に終わった。しかし陸上での戦闘はこれから始まるところだった。フィリピン防衛のため大本営は増援をオルモック湾に送る事を決意。その輸送戦力に竹が抜擢され、無謀な輸送作戦に身を投じる事になる。道中にはアメリカ軍が手ぐすね引いて待ち構えており、たたでさえ希少な輸送艦や駆逐艦が次々に沈められ、マニラ・オルモック湾間は艦船の墓場と化していた。策源地となっていたマニラも制空権を失い、湾内であっても安全な場所ではなかった。

10月29日、第三次輸送船団への所属が決まる。全部で9回行われた多号作戦に、竹は3回目から参加した。マニラに寄港して準備をしていたが、その途中でアメリカ軍による大空襲を受ける。この影響で第三号輸送船団の出発が遅れ、先に第四号輸送船団が出発する事態になった。

11月9日、新鋭艦島風を旗艦とし、雨に隠れながら出撃。しかし輸送船せれべす丸が座礁して任務の続行が不可能になり、また隠れ蓑としていた雨も上がってしまった。雲行きが怪しくなる中、先発していた第四号輸送船団が前方に現れた。揚陸を終え、マニラに引き返している所だったようだ。戦力に数えられていなかったのか、竹と初春は帰路の第四号輸送船団に編入され、翌10日21時に分離。11月11日午前5時に第四号輸送船団と合流を果たし、来た道を引き返して18時30分にマニラへと帰投した。皮肉な事に、竹が離脱した後の第三号輸送船団は敵の空襲を受けて壊滅。旗艦の島風や長波、輸送船は全滅し、朝霜だけが生き残った。強運に恵まれた竹であった。

11月13日、マニラは再度アメリカ軍の空襲を受ける。マニラは傷ついた日本艦艇が集結しており、連合軍にとって重要目標だったのだ。群がる敵機に対し、竹は対空戦闘を実施している。23時30分にマニラを出港し、駆逐艦霞や潮とともに同月15日に新南諸島へ寄港。本土から進出してきた第四航空戦隊の伊勢、日向と合流したのち、マニラに引き返した。この時、米潜水艦ヘイクの雷撃で損傷した第31戦隊旗艦の五十鈴とすれ違っている。21日にマニラ到着。

11月24日、第五次多号作戦に参加。今度こそオルモック湾への突入を目指すが、翌25日に「米機動部隊接近中」の報告を受け、マリンドゥケ島バラナカン湾に退避。しかしそこで米空母イントレピッドの艦載機約50機による襲撃を受け、機銃掃射と至近弾を喰らう。乗員15名が死亡。負傷者は60名に上った。第6号と第10号輸送艦が撃沈され、生き残ったのは竹と第9号輸送艦のみだった。この空襲で竹はジャイロコンパスを破損し、第9号輸送艦は物資揚陸に必須なワイヤーが切断され、揚陸が困難となってしまった。上層部からは「オルモック湾に突入せよ」と命じられたが、宇那木艦長は作戦の続行困難と判断、抗命を覚悟で反転を命令。沈没した輸送艦から乗組員を救助してマニラへ退却した。命だけは助かったものの、またしても突入は叶わなかった。

命令に背いて帰還した宇那木艦長は軍刀を携え、いざという時は自決する覚悟で司令部に出頭。しかし司令部は竹の生還を喜んでくれた。非情なオルモック湾突入命令は更に上の上級司令部から下されたもので、現地司令部にとっても不本意なものだった。また艦長が切腹覚悟で司令部に出向いた事は、乗組員たちの士気と戦意を高めた。次こそは死んでも必ず成功させる――燃え盛る闘志をみなが一様に抱いていた。竹はキャビテ軍港に回航され、ドックに入渠。昼夜兼行の応急修理が施されたものの、ジャイロコンパスは直されなかった。戦闘能力が低下した竹だったが戦況が後退を許さず、再び輸送任務へと駆り立てられた。

11月29日の夕方、艦長の宇那木勁少佐の計らいにより乗員に酒やビールが振る舞われた。次の出撃で竹は沈むだろうと考えており、海に飲ませるくらいならみんなで飲もうと考えたのである。各部署では宴会が開かれ、宇那木艦長も各所に顔を出して飲み回った。竹乗員の士気はまさに天を突く勢いだった。負傷し、マニラの病院に収容されていた乗組員が勝手に脱走し、竹に戻ってきたほどである。

華奢な竹、大男を屠る

12月1日18時(異説では11月30日の朝)、マニラを出港して駆逐艦桑や輸送船団とともに第七次多号作戦に従事。野戦高射砲大隊と独立工兵大隊を輸送する。海は平穏で、敵機の襲撃も無い幸運な航海だった。翌2日23時30分にオルモック湾へ到達し、増援部隊の揚陸を実施する。

しかし日付が変わった12月3日午前0時30分、闇夜に隠れて米駆逐艦3隻が南側からオルモック湾へと侵入してきた。相手は第120駆逐群のアレン・M・サムナー級駆逐艦。大型かつ最新鋭の駆逐艦だった。第7艦隊司令トーマス・C・キンケイド中将は輸送の妨害を目論み、レイテから遥々魚雷艇と駆逐艦をオルモック湾に送り込んできていたのだ。小柄の量産型駆逐艦に過ぎない竹たちには荷が重過ぎる相手である。第120駆逐群の司令ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒し、3隻を横に広げた横陣で突撃。全てを蹂躙せんと迫り来る。ちょうど、竹たちの上空を味方の夜間戦闘機「月光」2機(第804航空隊)が通過していった。湾内の魚雷艇狩りが目的だったが、接近中の第120駆逐群に発見され、交戦。月光は魚雷艇攻撃用の爆弾を敵駆逐艦サムナーに投下して損傷させ、残りの1機はモールに機銃掃射を加えて戦死者2名と負傷者22名を出した。この戦闘の光によって、敵の接近を察知する。

月光2機が敵を引き付けている間に、物資や兵員の揚陸を行う。入港直後、1隻の大発が接近し竹に横付けした。竹に便乗していた陸軍の参謀などが大発に移乗し、代わりに先のオルモック輸送で撃沈された島風の艦長や機関長ら8名が竹に乗艦する。

いち早く敵の接近に気がついた僚艦の桑が、竹に発光信号を放ちつつ立ち向かっていった。探照灯を照射しながら砲撃を行うも、圧倒的に優勢な敵艦からレーダー射撃を浴びてわずか10分で撃沈されてしまう。3隻の敵艦は、残った竹に矛先を向ける。数は3対1、オルモック湾は狭いため回避に向かず、しかも座礁の危険もある。全てが不利という状況である。敵から先制攻撃を受けた竹は12.7cm高角砲や副砲で反撃を開始。前部機関室左舷に不発弾1発を浴びて、機関の一部が使用不能になる。

絶望的状況に立たされた竹の切り札は、3本の魚雷のみ。本来は4本装備していたのだが、1本は事前の整備で誤投棄してしまっていた。狭い湾内を逃げ回りながら、10km先の敵艦へ向けて2本の魚雷を発射。誰もが祈る思いで魚雷の行く先を見つめた。その間にも敵艦から砲弾が飛んでくる。海を漂う桑の乗員からは「竹!頑張れ!」という悲愴な叫びが聞こえてきた。彼らにとって竹は最後に残った希望なのだ。

放った2本の魚雷のうち、1本が米駆逐艦クーパー(DD695)に直撃。船体を真っ二つにし、わずか36秒で沈んでいった。まさに奇跡の一撃だった。士官10名、水兵181名が戦死したと伝わる。残った敵艦は怒ったように集中攻撃を浴びせ、竹は次第に満身創痍となっていく。徐々に船体が傾斜していき、最大30度まで傾いたという。だが船団を守るため、竹は必死に反撃を続けた。高角砲を撃ちまくり、敵艦モールに複数の命中弾を与えて小破させた。獅子奮迅の活躍を見せる竹に、米駆逐艦2隻はとうとう戦意喪失。諦めて南に離脱していった(竹の雷撃を潜水艦のものと勘違いしたとも)。たった1隻で、見事優位な3隻の敵艦を撃退した。

一時は陸上に乗り上げ、防空砲台とする考えも浮かんだ。損傷もさる事ながら、艦の航行に不可欠な真水も不足していたのだ。苦慮する宇那木艦長に、航海長が「艦長、大丈夫です!最後には海水を焚いてでも4時間や5時間は航海してみせます!」と言い放った。これに勇気付けられ、考えを保留。最悪の場合は味方がいるセブ島に乗り上げようと考えていると、第9号輸送艦から発光信号で「揚陸完了」と知らせてきた。すると艦橋の誰かが「9号に真水があるんじゃないか」と呟いた。天啓だった。すぐに第9号輸送艦に横付けする。最初は要領が分からなかった乗員であったが、すぐに理解すると上甲板にポンプを持ってきて、必死に真水を補給してくれた。こうして命からがら助かった。第140号と第159号輸送艦も揚陸を完了させた。

竹が奮戦している間に輸送船団は揚陸を完了。劣勢の中での小さな勝利となった。桑を失ったとはいえ、竹は輸送任務を完遂してみせたのである。米駆逐艦1隻撃沈、1隻撃破。この戦果が、帝國海軍最後の水上戦闘における敵艦撃沈だった。とはいえ竹も瀕死の状態。桑の乗員救助はとても出来ず、要請だけして退却した。海域から脱出する時、桑の乗員と思われる者から「竹ッ!」と叫ぶ声が聞こえたという。道中で応急修理を行い、傾斜を回復。

12月4日午後、どうにかマニラまで帰投。凄まじい戦果を挙げた宇那木艦長は、南西方面艦隊司令の大川内傅七中将から賞詞を受け、差し向かいで夕食を馳走になる栄誉を賜った。宇那木艦長は一連の戦闘をオルモック夜戦と呼ぶ事を提唱した。翌5日にキャビデへ回航され、入渠する。しかし損傷の激しさから現地では修理できず、特に機関の損傷が原因で速力が上がらなかった。このため今後の作戦は全て取り消しとなり、呉への回航が決定する。そして第31戦隊は第5艦隊へ編入された。

失意の終戦から復員任務

12月15日、満身創痍の体でマニラを出港する。ちょうどその頃、ルソン島東方でコブラ台風が発生。進路上にいた米第38任務部隊が蹴散らされた。台風の影響で雨風や波浪が竹を襲ったが、第四艦隊事件で日本艦艇にはしっかり台風対策が施されていたので、大破状態ながら航行に支障が出る事は無かった。

12月18日に台湾の高雄へ入港。このまま基隆まで回航される。22日、船団を護衛して基隆を出港。鎮海や六連を経由し、1945年1月1日に門司へと帰り着いた。間もなく呉に回航され、4日から入渠修理を受ける。もはや内地に燃料は無く、まともに動く事すらままならなかった。修理は1月末に終わるだろうと目されたが、資材不足のせいか3月15日まで時間が掛かった。

2月28日、第31戦隊の旗艦となる。3月15日、第31戦隊は第2艦隊に編入され対潜掃討を担当する。3月19日、竹は呉を出港。そのおかげか米機動部隊による呉軍港空襲に巻き込まれずに済んだ。4月16日から26日にかけて三式探信儀を装備する工事が行われた。4月29日、駆逐艦楓とともに回天との訓練に参加。5月から、後部甲板に回天を載せられるよう改装を受ける。楓と同様に回天の練習艦となったが、頻発するアメリカ軍の空襲を受け、司令部は竹の温存を決断。海上に出る事を禁じた。これにより改装工事も中止。

7月3日、屋代島日目海岸に偽装係留される。生き残っていた「槇」「榧」と横に繋がって投錨し、艦体をネットで覆って擬装。木の枝や松の木を植えて陸地の一部であるかのように見せかけた。このため敵機が飛来しても全く機銃を撃たなかった。よほど擬装が上手かったのか、終戦まで攻撃を受けなかったとか。しかし攻撃こそ受けなかったが、眼前で漁船がグラマンの機銃掃射を受けても手が出せない歯がゆさもあった。ちなみに擬装用の植物がちょうど緑のカーテンとして機能し、艦内はとても涼しかったという。

そしてこの状態のまま、8月15日の終戦を迎えた。10月25日、除籍。

戦争は終わったが、航行可能だった竹には出番が残っていた。南方や各戦線に取り残された将兵や邦人を引き揚げさせる復員任務である。1945年12月から任務が始まり、1回目から4回目はポンペイ島と浦賀を行き来。次にパラオから邦人を引き揚げ、サイパンに在住していた沖縄出身者を沖縄本島に連れ帰った。以降は上海及びコロ島と本土を往復して中国方面の復員任務に従事。この時に艦内でコレラが発生し、病死する引き揚げ者が出たため防疫の都合で約一ヶ月隔離された事も。最後の奉公を終えた竹は1946年7月、特別保管艦の指定を受けて母港横須賀に係留される。約一年後の1947年7月16日に指定が解除されると、竹は賠償艦としてイギリスに譲渡された。しかしイギリスは竹をスクラップにして売ってしまった。

こうして短いながらも波乱に満ちた竹の艦歴は幕を下ろした。

関連項目

  • 松型駆逐艦
  • 軍用艦艇の一覧
  • 軍事関連項目一覧
  • 大東亜戦争

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