精神現象学とは、G・W・F・ヘーゲルによる哲学書である。1807年に刊行された。
原題は「学の体系」(System der Wissenschaft)。弁証法によって、意識が自己意識や理性などの道を辿りながら絶対知に発展してゆく過程を叙述した哲学史に残る大著である。
ヘーゲル哲学においては、『大論理学』『エンチクロペディー』『法哲学』に先立つヘーゲルの初の著書であり、ヘーゲル哲学の導入として位置づけられる。
カント『純粋理性批判』、フィヒテ『知識学の基礎』、ハイデッガー『存在と時間』に並ぶ超「難解書」であり、何の予備知識もなく挑んでも本棚の肥やしになることは確実である。
精神現象学はとにかく晦渋で読解が困難である。その理由はいくつかある。
そして何より読者を苦しめるのがヘーゲル独特の用語の用い方、通称ヘーゲル語である。「意識」「精神」「学問」「能力」「教養」など普通の言葉が何の説明もないままヘーゲル独自の定義で用いられ、またページによってその語義が変化するのだ。「いくら難解だろうが日本語で書かれているのだから分かるだろう」と甘い考えを持った挑戦者を容赦無くふるい落す凶悪な哲学書である。
では読破するためにはどうすればいいかというと、一番良いのは専門家と一緒に読むことである。大学で教授に聞くのもよいし、最近はオンライン講座も豊富である。また精神現象学は知名度もあって概説書が豊富である。本屋で自分のテイストに合いそうなものを選んでレファレンスとして参照しながら原著にアタックしてみるのが良いだろう。
CだけAA・BBというややこしいナンバリングがされているが、これには理由がある。元々Cについては「理性」と「絶対知」のみが叙述される予定であったが、後から「精神」「宗教」が追加されたのである。
他にも序論が二つあったり、同じ単語であっても前と後で違う意味で用いられていたりと、整理されていない書物であることはヘーゲル自身が認めていたようである。
本書で問題にされるのは認識論である。つまり「真理(本当のもの)をどうつかむか」という古代ギリシャから伝わる哲学の一大テーマだ。カントは「真理と私たち人間には超えがたい溝があり、決して真理そのものを認識することはできない」と考えていた。ヘーゲルはこの真理(客体)と人間(主体)の対立を否定し「真理とは私たちの意識そのものなのだ(矛盾する客体と主体の綜合)」と考えた。
これを本著の中では「実体は主体である」と表現されている。実体とは真理のことであり、実体が自分を保つために自分ならざるものになった形態を主体と呼ぶ。普通、真理というと「不変であり一切の矛盾のない存在」をイメージするだろう。しかしヘーゲルにとっての真理はそれとは真逆で、真理とは真理たり得る(自己同一性を保つ)ために「常に変化し矛盾しつづけるもの」であった。
それは一つの生物が常に摂取と排泄を繰り返す事によって常に細胞を新たにすることに似ている。人間は一定期間で全細胞が新陳代謝するが、それによって自分を失ったりはしない。むしろ自己保全のためには新陳代謝は必須である。同様に「生きた実体(真理)」も自ら姿を消し、自分ではないもの(主体)として現れることによって自己を保持する。また、人間の自らの本質が細胞の中にあるように、実体も主体を超越した存在ではなく、主体の世界に内在しその循環の中に在るものである。
主観的存在である私たちの意識が真理であるならば、客観的な世界の全てもまた私たち意識なのである。世界のあらゆる存在が自らの意識であるという世界観を観念論といい、また絶対的な他在のうちに自己を見出す境地を絶対知と呼ぶ。しかし絶対知には一足飛びに到達できるものではない。そこで精神現象学ではまず、ただ「ある」という最も基礎的な意識(感覚的確信)からはじめ、知覚、悟性、自己意識、理性と色々な寄り道をしながらゆっくりと絶対知へと進んでいく。その多様な内容から「精神現象学は小説のような哲学書だ」と評する専門家もいる。
精神現象学の主題→真理とは人間の意識である(実体とは主体である)
精神現象学の概要→人間の意識が自らが真理であることを自覚する旅路
「実体と主体」は本書の中では様々な形をとって現れ、それぞれ対立の上で統一される。
一通り眺めてイメージをつかんでほしい。
上記の考えはキリスト教の神、イエス、聖霊の三位一体がモチーフになっている。神=真理、人間=イエスと考えてみると、天上におわす神が地上に降り立ったとき、神ならざる人間イエスとして受肉する。私たち人間は神を崇めているつもりが、実は私たち自身が神であったのだ。精神現象学はドイツ語での原題がPhänomenologie des GeistesというがこのGeistes(英語でいうとghost)は三位一体の聖霊のことである。私たち人間(認識主体)が実は神(認識対象)であることを自覚するための聖霊の旅路。それこそが精神現象学のメインテーマである。
先ほど「実体(真理)は世界に内在する」と述べたが、キリスト教的にいえば「神は世界に内在する」。これを最初に指摘したのはスピノザであるが、この思想は「超越者たる神が世界を創造した」と考えていた教会から猛批判を浴びたようだ。神を実体として捉え世界に内在する社会共同体を「人倫」と呼ぶ。人倫の国では「理念」という共同体意識があり、主体たる個人は共同体に献身し、共同体は個人に生存を与える。この時、人倫の国は実体は主体と化す、すなわち個人と社会は一体化している。(人倫の国についてはヘーゲルの別著『法哲学』に詳説されている)。
以上のように実体=主体論は現実の中では神と国家と哲学体系に現れる。現実における実体の啓示は、天上の神が人間に指し示すものでなくその逆で人間の「自然的意識」と呼ばれる日常的な感覚が普遍者(神)へと昇華されることなのである。その昇華されて普遍的自己意識と呼ばれるようになった共同体・国家意識が哲学の極地である「絶対知」の成立へと繋がることとなる。
『精神現象学』について解説した本は多いが、特に有名なのは、アレクサンドル・コジェーヴという20世紀の哲学者のものである。彼が行った講義は『ヘーゲル読解入門』にまとめられ、フランス現代思想に大きな影響を与えた。
ちなみに、東浩紀が提唱する「動物化」という概念はコジェーヴが元ネタである。
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最終更新:2025/12/09(火) 18:00
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