美保関事件とは、1927年8月24日に島根県美保関沖で発生した艦艇の多重追突事故である。
夜間訓練中に多重衝突事故が発生し、駆逐艦蕨(わらび)が沈没。葦(あし)と軽巡洋艦神通が大破して死者・行方不明者合わせて119名を出した海軍史上に残る大事故である。
1927年8月24日、夜間訓練が実施された。参加艦艇は甲軍艦隊と乙軍艦隊に分かれ、乙軍が甲軍に夜間無灯火襲撃を行うというものだった。事件を起こしたのは攻撃側の乙軍であった。
同日22時、第5戦隊(重巡加古、古鷹、軽巡神通、那珂)と第2水雷戦隊は美保湾を出港。訓練海域の美保関北東へと向かった。23時6分、神通は左30度に甲軍艦隊を発見し探照灯を照射。僚艦に甲軍の存在を知らせた。続いて那珂とともに襲撃をかけようとしたが、軽巡龍田から探照灯の照射を受けたため、退避すべく右へ大回頭を行った。23時16分、回頭中の神通の前に第27駆逐隊の駆逐艦(艦名不明)が横切り、慌てて舵を切る。何とか回避に成功し、衝突は避けられた…と思いきや、今度は駆逐艦の後ろを続航していた駆逐艦蕨(無灯火)が急接近。回避は、間に合わなかった。神通は急速後進をかけたが無駄だった。23時19分、蕨の右舷艦橋付近に45度の角度で神通の艦首がめり込んだ。神通は第一砲塔より前の部分を亡失、蕨は船体を真っ二つにして沈没した。悲劇はこれだけに留まらなかった。
蕨の後ろを続航していた葦は右へ舵を切り、神通の後ろに居た那珂は左へ舵を切って回避しようとしたが、これがまずかった。互いに急接近してしまい、23時20分に葦の左舷後部へ80度の角度で那珂が衝突。葦は三番砲塔より後部をもぎ取られ、那珂は艦首を大破する大怪我を負った。大破した葦は今にも沈みそうだったが、乗組員の防水加工によって命を繋いだ。突然の多重事故により演習は中止となり、長門だけでも舞鶴に退避すべきという声が上がった(結局海域に留まった)。現場に居合わせた艦艇は直ちに救助活動を開始、鳳翔や能登呂からは捜索機が発進した。何とか無事だった那珂は古鷹や戦艦比叡に護衛されて離脱、艦首を大破した神通は加古に護衛されながら金剛が曳航、葦は軽巡阿武隈に曳航されて舞鶴へと向かった。
この事故により蕨の乗員92名と葦の乗員27名、計119名が殉職。翌25日に海軍省は事件を発表し、新聞も事件の事を報じた。横須賀鎮守府で査問会と軍法会議が開かれ、神通の艦長だった水城圭次大佐が矢面に立たされた。水城艦長は不用意な大回頭と探照灯の確認を怠ったとして、業務上過失と業務上過失致死の罪で起訴された。負い目を感じていた彼は査問会で「このような事故の最終的な責任は、先頭艦の指揮官の負うべきものだ」と発言。判決日前日の12月26日に自宅で自決した。また第27駆逐隊司令も責任を追及され、謹慎及び予備役編入となっている。
安全を軽視した無茶な訓練が引き起こした事故であり、美保関事件は「海の八甲田山」と呼ばれている。長らく事件は秘匿されていたが、死亡した蕨の五十嵐恵艦長の息子が決死の追跡調査を行い、1978年に全容を明らかにした。2006年8月24日、美保関地蔵岬に美保関沖遭難事件の記念碑が建立。後世に事件を伝えている。
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最終更新:2025/12/09(火) 15:00
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