菊池政隆(きくち・まさたか 1491 ~ 1509)とは、肥後国の戦国大名である。菊池家23代当主。菊池重安の子。初名は『政朝』(まさとも)
政隆の家系は20代当主・菊池為邦の弟・菊池為安の孫にあたる。為安の家系は短命が多いと言うよりか枕元で安心して死ぬ人物が見当たらない。祖父・為安は1465年に高良山の一戦で戦死、父・重安は1501年に政隆当時11歳の時に宇土為光との一戦で戦死している。
1504年、はとこで当主であった菊池能運は宇土為光との一戦で受けた戦傷により容態が悪化。死期を悟ったため、遺言として次期当主を政隆に指名した。能運はまもなく23歳の若さで亡くなり、菊池家の家督を継承した。
しかし、わずか14歳と若すぎる年齢というのもあり、家臣団たちはこれを軽んじており命令を聞かなかった。そればかりか菊池氏を掌握する好機だと目をつけた阿蘇惟長が阿蘇家当主の立場を弟に譲り菊池家当主の立場になろうとした。
政隆の家督相続を好ましく思わない家臣団たちにより、段々と孤立化を深めていき、1507年になると阿蘇氏・大友氏により追放され、相良長毎の元へと逃れた。これにより阿蘇惟長が菊池家の当主に就任して『菊池武経』に変身した。政隆は逃亡先で長毎により匿われていたが、長毎はどちらかというと武経と仲良くしていたこともあり、いつかは武経に引き出されて殺されるかもしれないと思い有馬領の島原へと逃れた。体勢を整えると筑後へと走った。
1509年に大友家臣・朽網親満により攻撃を受けて捕虜になるが、旧臣・玉屋貞親の策により救出されて菊池の安国寺へと入った。しかし、武経の知るところとなり、久米原合戦で敗北し安国寺で自害して果てた。
正当な後継者だったのだが、周りがこれを嫌い、更に翻弄され続けた19年の短い生涯であった。
短命であったが、蒼天録PKの1507年シナリオでは大名として登場している。またこの作品では多くの一般武将やマイナー武将の評価が底にいた時期であったが、政隆に関して言えば軍事能力が40台とそこそこの評価であったと認識される。
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
| 武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
| 覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
| 天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
| 将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
| 烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
| 嵐世紀 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
| 蒼天録 | 統率 | 43 | 知略 | 43 | 政治 | 31 | ||||||||
| 天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
| 革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
| 天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
| 創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
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最終更新:2025/12/09(火) 22:00
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