遣独潜水艦作戦とは、第二次世界大戦中の日独間で行われた作戦である。
第二次世界大戦中、日本とドイツは同盟国の関係にあり、ともに連合軍と戦った。しかし両国間は9200kmも離れており、通信以外の交流手段は乏しかった。開戦前はソ連のシベリア鉄道を使って物資・人員の往来が行われていたが、1940年6月の独ソ戦の勃発により閉鎖。航空機では輸送量が少なすぎる上、日ソ中立条約の都合でソビエト上空を通過する事は憚られた。そこで輸送には海路を使用。東南アジアから南アフリカの喜望峰を回り、大西洋を抜けてドイツに至る航路が取られた。
ところが1941年12月に大東亜戦争が勃発。アメリカが本格的に参戦し、主要航路の大半が連合軍の勢力下に収まってしまった。日独間の交流はほぼ絶たれたかに見えたが、両国の思惑が海路を維持させた。技術大国ドイツの生み出す画期的な兵器群は日本にとって非常に魅力的に見えた。一方のドイツも日本が押さえている東南アジア産資源が欲しかった。利害が一致した両国は互いが求める物を交換する協定を結び、物資の輸送を開始した。枢軸国が優勢だった頃は封鎖突破船が用いられ、イギリス軍の警戒網を突破したドイツの船が東南アジアに到達。日本が望む精密機械や戦略物資を降ろし、代わりに資源を満載してドイツ本国に戻った。一部は現地に留まって日本軍に協力したり、日本本土に来訪したりしている。
しかし1942年も半ばに入ると、海上輸送路も危険になってきた。そこで今度は潜水艦を使っての輸送に切り替えられた。潜水艦は隠密性が高いため、水上船と比べて成功率が高かったのだ。こうして遣独潜水艦作戦が開始され、日独から潜水艦が派遣された。
日本からは伊30潜(往路成功、復路撃沈)、伊8潜(唯一往復成功)、伊34潜(往路撃沈)、伊29潜(往路成功、復路撃沈)、伊52潜(往路撃沈)の5隻が派遣された。しかし無事往復に成功したのは伊8潜だけであった。対するドイツからはU-180、U-511、U-1224(道中撃沈)、U-234が派遣された。ただU-511を除いて日本本土までは行かず、東南アジアやそれより前の海域で引き返している。
連合軍の妨害で多くの潜水艦が沈められ、日本に届かなかった技術や設計図は多い。それでも橘花や秋水を生み出すきっかけになったり、ウルツブルクレーダーの開発に成功したり、碧素(ペニシリン)生産研究の起点となったりと恩恵をもたらした。本作戦は、日独の軍が唯一共同で行った大規模作戦である。
1940年、ドイツで技術調査が行われた。その中で射撃制御用ウルツブルクレーダーの高性能に驚いた日本は、ドイツに技術供与を要請。大東亜戦争開戦後に許可が下った。しかし既にイギリスのみならずアメリカも参戦しており、海上輸送は危険だった。そこで日本側が潜水艦を使った輸送を提案し、1942年4月6日に軍令部が訪独の指令を出した。
4月11日、伊30潜は呉を出港してペナン基地へ向かった。これに伴ってドイツに滞在していた日本人技術者に対しウルツブルクレーダーの技術教育が行われている。インド洋を望む中継点ペナン基地を4月22日に出発し、アラビア海及び東アフリカ沖で通商破壊と偵察任務に従事。6月18日、マダガスカル島サントマリー岬南東250海里で特設巡洋艦報国丸から補給を受け、ドイツに持っていく空母設計図、雲母、魚雷設計図、生ゴムなどを搭載。この時、軍事機密の塊である九五式酸素魚雷を降ろし、八九式魚雷に換装している。報国丸と別れた後は単身インド洋を西進し、ドイツを目指した。8月2日、中部大西洋でイギリス軍機の攻撃を受けて損傷するが、何とか生き延びる。
8月6日、ロリアン沖でドイツ海軍の駆逐艦と合流。護衛を受けながらドイツ占領下のロリアン軍港に到着した。物資の積み降ろしと積み込みが終わるまでの間、伊30乗組員には束の間の休息が与えられた。上陸した乗組員はパリへと向かい、各々羽を伸ばした。シャンゼリゼのレストランでは軍艦マーチが流れるというサービスを受けたとか。その後、潜水艦乗員の休養地であるシャトーネフへ案内された。日独の軍人は情報交換を行い、伊30側は「インド洋の対潜対策が遅れている」とドイツ海軍に情報提供した。ちょうど大西洋方面のUボートの喪失数が激増しており、新たな狩り場を求めていたドイツ海軍はこれに関心を持った。のちにモンスーン戦隊が創設され、インド洋にUボートが進出するきっかけとなっている。一方、ドイツ側からは伊30潜の静穏性の低さを指摘。「海中でドラム音を鳴らしているようなもの」とボロクソに非難された。対策のため、伊30潜には主機や補機の台座に防振ゴムを装着している。帰国に備え、船体の色を大西洋の海面に馴染みやすい灰色に塗装し直した。
ウルツブルクレーダー、レーダー設計図、日本人技術者1名、エニグマ暗号機、潜水艦用魚雷方位盤、20mm4連装機銃を積載し、8月23日にロリアン軍港を出発。帰国の途についた。イギリス海軍の厳重な警備を突破し、大西洋、喜望峰、インド洋を通過。10月8日に中継点のペナン基地へと入港した。そこで整備と補給を行い、内地に向けて出港したのだが…。エニグマ暗号機を早急に手に入れたい兵備局長が独断でシンガポールへの寄港を命じ、伊30潜は寄り道をする事になる。
10月13日、急遽シンガポールに寄ってエニグマ暗号機10台を揚陸。内地を目指して出港したが、東に3海里進んだところでイギリス海軍が敷設した機雷に触れて沈没してしまう。連絡の不徹底が招いた悲劇であった。佐世保工廠から300名が派遣され、同月20日に沈没した伊30潜からレーダーの回収を試みた。13名の遺体と大部分の積み荷は回収できたが、肝心のレーダーは壊れて使い物にならなかった。
こうして1回目の訪独は成功寸前で失敗してしまったのだった。
ヒトラー総統は、日本潜水艦による通商破壊が不活発なのを憂い、新型Uボート2隻を無償譲渡する事に決めた。このうちの1隻であるU-511はドイツ人乗組員によって日本本土に回航されたが、もう片方のU-1224は日本人回航員によって本土へ持っていく事になった。その人員をドイツまで輸送するのが伊8潜の任務であった。
呉軍港で海軍関係者6名、回航要員60名、兵器や図面を積載。伊8潜は旗艦用の大型潜水艦であったが、定員以上の人間を乗せたためスシ詰め状態となった。対策として艦首魚雷発射管と予備魚雷格納庫を居住区に改造し、更に予備の魚雷を降ろすなどして生活空間を確保した。
1943年6月1日夕刻、伊8潜は呉を出港。6月10日にシンガポールへ到着し、キニーネ、生ゴム、錫、雲母、モリブデンなどドイツでは入手困難な資源を満載。22日にペナン基地へ回航し、不要となった艦載機の搭乗員や人員を降ろして最終準備を行った。6月27日、ペナンを出発してインド洋に入った。敵に見つかる危険性を下げるため補給は2回に分ける事とし、通商破壊中の伊10が燃料補給を担当した。7月11日、喜望峰の暴風圏に突入。暴風と波浪で左舷航空機格納筒付近の上構側板が剥がれてしまったため、嵐の中でロープを巻きつけて補修した。暴風圏を抜けると、穏やかな大西洋が広がっていた。7月24日にドイツ側と連絡がつき、補給用のUボートを派遣してくれる事になった。しかしドイツ側の都合で一旦中止となり、伊8潜側をがっくりさせた。同時に入港先をロリアンからブレストに変更するよう指示が届いた。
8月20日、アゾレス諸島西方でU-161と合流。伊8潜にドイツ人連絡将校が乗り移り、新型の逆探装置を受領・装備した。伊8潜はお礼にコーヒーが入ったドラム缶を渡し、U-161側からとても喜ばれた。ドイツ国内でもコーヒーは希少になりつつあり、このプレゼントは時勢にピッタリだったのだ。大西洋はイギリス軍が厳重に警備していたが、貰った逆探装置のおかげで危険を回避し続ける事が出来た。8月30日、3隻の独水雷艇と空軍機が合流。機雷原突破船の先導を受け、8月31日にブレスト軍港に入港した。伊8潜は歓喜の声で迎えられ、軍楽隊がドイツの歌と君が代を演奏した。ドックで整備を受けている間、乗組員はパリや保養所で羽を伸ばした。
駐独海軍武官14名、魚雷艇用エンジン、レーダー、4連装20mm機関砲など56品目を積載して10月15日にブレストを出港。帰国の途についた。艦長が大佐なのに対し、武官の最高階級者が少将だったので命令系統に混乱が生じるかに思われたが、少将が艦長の指示に従うと宣言したため問題解決と相成った。11月8日、アフリカ沖で大型船舶を発見。攻撃しようとしたが、相手の船籍が中立国だったため慌てて中止している。11月10日、喜望峰沖420海里を通ってインド洋に入った。寄港先はペナンの予定だったが、第8潜水戦隊司令部より「マラッカ海峡に敵潜がいる」との情報を受けたためシンガポールに変更。イギリス軍の飛行場があるココス島を150海里迂回し、スンダ海峡を突破。12月5日にシンガポールへ寄港した。ここで駐在武官を降ろし、セレター軍港で整備と補給を受ける。12月10日に出発したが、マニラ沖に敵潜の出現が確認されたため、大きく迂回。最も危険なバシー海峡は夜を待ってから突破した。21日にゴールの呉軍港へ入港。遣独潜水艦作戦で唯一成功した例となった。
伊8潜が持ち帰った物品は、さっそく三菱重工の工場で研究・調査された。
伊8潜がまだブレストにいた頃の1943年10月13日(9月15日説あり)、呉を出港。10月22日にシンガポールへ寄港し、生ゴムやタングステンといったドイツ向け戦略物資を積載。バラスト代わりに錫も積載したという。11月11日にペナンに向けて出港したが13日朝、マラッカ海峡(ムカ灯台南南西1.8km)で待ち伏せていたイギリス潜水艦トーラスの雷撃を受けて撃沈された。生存者は14名のみに留まった。
1943年11月5日、4隻目の訪独艦として呉を出港。同月14日にシンガポールへ到着し、駐独海軍武官16名とドイツ向け物資を積載。伊8潜が訪独した時に受け取った新型の逆探装置を装備し、12月16日に出港。前回の伊34潜がマラッカ海峡で撃沈された事を受け、今回はペナンに寄港せず直接インド洋に向かっている。12月23日、モンスーン戦隊の独油槽船から燃料補給を受ける。イギリス軍の目から逃れるため、喜望峰600海里沖を大迂回し、大西洋に入った。
1944年2月13日、アゾレス諸島南方沖でU-518と合流。連絡役としてドイツ海軍中尉1名と下士官2名が乗り込んだ。艦内にはドイツ人が好むジャガイモや黒パンを載せていなかったため、米を糊のようになるまで煮て、鶏のシチューに混ぜるなど工夫して食事を提供した。また潜航が長引くと真っ先にドイツ海軍中尉が体調不良を訴えるため、艦内汚染度のバロメーターに使用されたとか。3月10日にドイツ海軍の駆逐艦4隻と合流。空軍機7機も支援に回ってくれた。水上航行でロリアンを目指し、翌11日午前7時にロリアン軍港へ入港。便乗者と物資を降ろした。ドイツの厚意で新型の逆探装置が取り付けられた。
エニグマ暗号機やウルツブルクレーダー、メッサーシュミットMe262及びMe163とその資料、イソタ魚雷艇の資料、巌谷英一中佐など便乗者14名などを積載して、4月16日にロリアンを出発。連合軍の支配海域を巧みに突破し、7月14日にシンガポールへ寄港した。この時、便乗していた巌谷中佐が一部のMe262の資料を持ち出しており、空路で羽田へと向かっている。7月17日にシンガポールを出発、内地を目指した。
しかし7月26日、台湾南端で待ち伏せていた米潜水艦ソーフィッシュの雷撃により沈没。生存者は艦橋当直員の2名だけだった。せっかくのレーダーやメッサーシュミットの現物が失われてしまったが、先述の通り巌谷中佐が一部の資料を持っていったので完全な喪失は免れた。わずかな資料をもとに「秋水」と「橘花」の開発計画がスタートした。
1944年3月10日、呉を出港。5隻目の、そして最後の訪独艦としてドイツに向かった。伊8潜が持ち帰ったドイツ製兵器の技術習得が訪独の目的であり、ゆえに艦内には民間の技術者が沢山乗っていた。日本光学工業の水野一郎氏は対空射撃用高射装置、富士電機の岡田誠一氏は対空機銃射撃装置、東京計器の萩野市太郎氏は対空射撃用安定装置といった具合に各々担当が決まっていた。
3月21日、シンガポールへ入港。ドイツ国内で不足しているタングステンやスズ、代金代わりに支払う金塊2トンを積載して2日後(4月23日説あり)に出港した。無事インド洋と喜望峰を突破し、5月20日に大西洋へ進出。ドイツ海軍はベルリンの駐在武官を通して、「危険水域に入った伊52潜を守るために、『既にドイツに到着して任務を完了した』という偽情報を流しては?」と日本政府に提案。実際に流されたが、連合軍の暗号解析班はこれが虚偽だと見抜いていた。
入港先はロリアンであったが、6月6日にノルマンディー上陸作戦が行われ、フランスが戦場と化してしまった。2日後、伊52潜にもその報が知らされ、ロリアンへの入港は中止。代わりにベルリンから「6月22日に独潜水艦と合流せよ」と命じられる。独潜水艦から逆探装置を受け取り、自力で敵から逃れられるようにしようとした訳である。
少し遅れること6月23日20時20分、アゾレス諸島北方にU-530が現れた。さっそく物資の受け渡しが行われたが、暗号を解析していたアメリカ軍により艦載機が送り込まれ、2隻は攻撃された。U-530は無事逃げられたが、伊52潜は撃沈されてしまっている。8月2日、日本海軍はビスケイ方面で喪失と判断した。
戦後の調査によると、伊52潜の艦内から金の延べ棒が無くなっていたという。
1943年2月8日、U-180はブレストを出発。艦内には訪日を望むインドの独立運動家スバス・チャンドラ・ボースと秘書ハッサンが乗っており、二人を伊29潜に渡すのがU-180の任務である。3月3日、補給艦U-462と接触し、燃料と物資の補給を受ける。4月18日午前3時56分、喜望峰沖でイギリスの商船を撃沈する戦果を挙げる。
4月20日、マダガスカル島南方約300kmの地点で伊29潜と合流。天候不良によりボースの移乗には数日を要した。その間に武器や新発明品の交換が行われたという。伊29潜からはドイツに向かう技術士官2名と代金代わりの金の延べ棒50本が乗り移った。その後、U-180は補給艦を撃沈されたり、イギリス軍機に襲われたりと散々な目に遭ったが生還。伊29潜も無事に生還し、ボースは日本にやってくる事になった。
ヒトラー総統が日本に無償譲渡したIXC型Uボート。当時IXC型は新型であり、ヒトラー総統の太っ腹っぷりが窺える。26歳の若手艦長であるフリッツ・シュネーヴィント中尉率いるドイツ人乗組員は、このU-511を日本本土まで回航するのが任務である。またU-511には帰国命令に伴って駐独海軍武官の野村直邦中将や杉田保軍医が便乗していた。出港スケジュールを巡って、ベルリンの大使館と外務省が早口の鹿児島弁を使用し連合軍を混乱させた小話が有名である。
1943年5月10日13時、軍楽隊が奏でるドイツの歌と君が代に送られながらロリアンを出発。3万kmの長旅に臨んだ。ロリアン港外に出るとU-511は潜航していった。10日後にはアゾレス諸島を通過し、喜望峰沖300海里の暴風圏を突破。6月下旬にインド洋へ到達し、道中でアメリカ商船2隻を狩って、7月15日にペナン基地へと入港。ここで野村中将ら便乗者は下艦し、空路で本土を目指した。性能調査と道案内役を務める奥田増蔵大佐以下4名が乗艦し、7月24日に出発した。補給の際、U-511に重油を入れてしまったため後々苦労したという(Uボートの燃料は軽油)。7月29日、南シナ海で高雄発シンガポール行きのヒ3船団と遭遇。見慣れない塗装と形状をしていたため、護衛の海防艦から誤射を受けてしまう。奥田大佐は手旗信号や日章旗を振りかざすなどして味方である事を訴え、臨検してきた海防艦択捉に事情を伝えた。無事解放されたU-511は、8月6日に呉へ入港。無事日本海軍に引き渡され、呂500潜と命名された。
ちなみに呂500潜を解析した結果、日本の技術力では量産不可と判断されている。
伊30潜の沈没によりウルツブルクレーダーの現物を入手できなかった日本海軍は、ベルリンの海軍武官を通じてドイツ海軍に協力を要請。ドイツを通じて今度はイタリア海軍にお鉢が回り、テレフンケン社の技術者ハインリッヒ・フォーデルスと電波兵器専門家の佐竹金次陸軍中佐が日本に向かう事になった。またレーダーの図面や資材も積載され、撃沈対策にルイージ・トレッリとバルバリーゴの2隻が投入された。
1943年6月16日、ルイージ・トレッリはボルドーを出発。連合軍の哨戒網を突破し、8月26日にスマトラ島北方のサバンに到着した。しかしバルバリーゴは6月24日に英哨戒機に捕捉され、モロッコ沖で撃沈されてしまっている。こうしてルイージ・トレッリだけが東南アジアに到達したが、直後の9月9日にイタリアは降伏。艦体はドイツ軍に接収され、乗組員は拘禁。その後、新たに樹立したイタリア社会主義共和国につくか、連合軍に下ったイタリア王国につくかの二択を迫られ、王国に忠誠した者は収容所送りとなった。前者を選んだ者は解放され、潜水艦の乗組員に復帰した。しかし定員を割ってしまったので、ドイツ人と合同で運用されたという。
ヒトラー総統から無償譲渡するUボートIXC型の1隻。こちらは日本人回航員によって本土に回航する事になっており、伊8潜が要員60名を運んできている。1943年10月20日から1944年2月15日にかけて、バルト海でドイツ海軍から操艦技術を学んだ。3ヶ月の訓練期間を終えると、いよいよ日本に向けて回航する時が来た。メッサーシュミットMe163の設計図やエンジン、IX型Uボートの資材などを積載し、出港準備を整えた。この間に日本海軍へ編入され、呂501潜に改名された。
3月30日、キール軍港より出発。大西洋を南下し始めた。しかしすぐにアメリカ軍のハンターキラーグループに捕捉され、1隻の護衛空母と6隻の駆逐艦から追い回される。2日間の潜航を強いられた呂501潜は無電で「追跡されている」と報告したが、高周波方向探知装置を搭載していたアメリカ軍には筒抜けで、正確な位置を掴まれてしまう。5月13日、カーボベルデの西北西で護衛駆逐艦フランシス・M・ロビンソンのヘッジホッグ攻撃を受けて撃沈された。乗員56名は全員死亡。まだ大西洋からも出ていなかった。
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最終更新:2025/12/07(日) 20:00
最終更新:2025/12/07(日) 20:00
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