長野主膳 単語

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長野主膳とは幕末の国学者であり、井伊直弼の腹心の一人である。諱は義言(よしとき)。別名主馬。

概要

文化12年(1815年)、伊勢国に生まれる。前半生は不明な点が多いが、本居宣長系の国学を学んだと言われる。国学者として各地を転々としつつ塾を開いて生計を立てる。

天保13年(1842年)、近江国で塾を開いていた時期に彦根藩主・井伊直弼から声がかかり、天保14年(1843年)11月に初対面する。井伊は長野に心酔し、

「今よりは義言うしは吾が師なり。おのれは義言うしが教え子なり。」

と師弟関係を結んだ。

長野の国学は朝廷の権威を認めつつ、政治権力については朝廷から武家に対して大政委任されているという立場を取る佐幕的尊王論である。長野から国学を学んだ井伊は、それまで学んできた儒学や仏教と異なる思想に感銘を受け、以後の活動にも深い影響を与えることになる。また、彦根藩の世子となった井伊は、彦根藩士を長野の塾に勧誘して多数門人にしている。このようにして長野は井伊とその配下に対して思想的影響力を高めていく。

井伊が藩主に就任すると、嘉永5年(1852年)4月に正式に藩士として召抱えられる。以後、長野は井伊の腹心としてその政治活動に深く関与していく。

京都大老

黒船来航後、井伊は急速に発言力を増した朝廷での工作活動を長野に担当させた。上京した長野は、徳川慶喜を次期将軍にするための勅諚を引き出そうと工作活動を行う人々の存在を嗅ぎ付け、これを阻止するため関白・九条尚忠に対して

「賢愚や年長で君主を決めるのは夷荻風であって皇国風ではない。それが許されるのであれば代々家を相続する意味はなくなり、恐れ多けれども皇室も危うくなる。」

と、血統を重視した大義名分論を展開した。長野の意見に同調した九条は将軍継嗣に関する勅諚の中の「賢明・人望・年長」という文言を削除して骨抜きにしてしまった。

同じ頃、江戸では井伊が大老に就任。事実上最高の権力を持つに至る。8月、再度上京した長野は条約調印を非難する勅諚が水戸藩に降下されたことを知り、これを水戸藩の陰謀として井伊に報告。9月、井伊から折り返し弾圧の指示が下ると、所司代や町奉行に命じて京都で活動していた尊攘志士の取り締まりを開始した。最大の標的は梅田雲浜、梁川星巌、頼三樹三郎、池内大学の四人で、僧侶月照や西郷隆盛にも追っ手が迫った。

また、朝廷における井伊のシンパだった九条が、朝廷内部のゴタゴタが嫌になって辞表を提出するとこれを阻止。逆に一橋派と見られる廷臣たちを落飾させて朝廷における自派の勢力維持に努めた。更に朝廷との融和の実を上げるため皇女和宮を徳川家茂と婚約させるための活動を行う。

井伊の権力を背景に「京都大老」と呼ばれるほどの暗躍ぶりを見せ、我が世の春を謳歌していた長野だったが、井伊暗殺によって命運が絶たれる。

最期

安政7年(1860年)3月3日、井伊直弼が水戸・薩摩の脱藩浪士に暗殺される。

長野は幕府の命によって引き続き和宮降嫁のための工作活動を京都で行っていたが、文久2年(1862年)7月20日、長野の京都での活動を補佐していた九条家家臣の島田左近が暗殺されると身の危険を感じて彦根藩に逃れる。だが彦根藩においても既に長野は厄介者扱いされており、藩内の勤王派によって上層部へ厳罰が進言される。

8月24日に長野は捕縛され、27日に斬罪に処された。享年48歳。

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関連項目

  • 幕末
  • 幕末の人物の一覧
  • 井伊直弼

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