香椎(練習巡洋艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した香取型練習巡洋艦3番艦である。艦名は福岡県福岡市に所在する香椎宮から取られている。1941年7月15日竣工。南遣艦隊の旗艦や船団護衛を務め、小型商船、油槽船、小型輸送船、曳船等を拿捕する戦果を挙げた。1945年1月12日にキノン湾北方で撃沈される。
大日本帝國海軍では旧式化した装甲巡洋艦磐手と八雲を練習艦代わりに使用していたが、日露戦争以前に建造された艦だけあって老朽化が進んでいた。そこで新たに練習用の巡洋艦を建造する事に決め、香取型練習巡洋艦4隻の建造を計画。このうち3隻が就役し、香椎は3番艦にあたる。建造費は1隻あたり僅か660万円。陽炎型駆逐艦の建造費が900万円なので予算が切り詰められていた事が分かる。
設計は迅鯨型潜水母艦を参考し、艦首楼船型を採用。船体強度こそ高いが練習用のため装甲防御は皆無であり、商船同然の防御力しか持っていなかった。また275名の士官候補生の居住区と諸訓練施設を確保する目的で高い艦舷を持ち、軽い船体にバラストを載せて重心を下げている。機関には蒸気タービンとディーゼルエンジンを採用。姉の香取と鹿島には練習航海の機会があったが、国際情勢逼迫により香椎は一度も機会に恵まれなかった。半分ディーゼルエンジンのため燃料消費が少ないのが強みで、燃料が枯渇しかけた戦争末期で重宝された。兵装に関しては軍部からの要求は無く、「戦闘に使用しない」「予算の範囲内で収める」との条件付きで設計者の大園大輔造船少佐に一任された。巡洋艦の基本計画番号には本来Cが使用されるが、練習巡洋艦という全く新しい枠組みのため、水上機母艦や潜水母艦等と同じJが使われ、基本計画番号J-16となった。何かと切り詰めて建造された香取型だったが、外国を歴訪する際に長官室が貴賓室として使用される事から内装は前例が無いほど豪華に仕上げている。
要目は排水量5890トン、全長133.5m、水線長130m、全幅15.95m、最大速力18ノット、航続距離は12ノットで7000海里、乗員315名と候補生275名。武装は50口径14cm連装砲2基、40口径12.7cm連装高角砲1基、25mm機銃4丁、53.3cm魚雷連装発射管2基、カタパルトと水上偵察機1機を保有する。
1939年に策定された海軍軍備充実計画(通称マル四)により、巡洋艦101号艦の仮称で建造が決定。予定では香取型は2隻しか建造しなかったところを、追加でもう1隻建造する事になった。これは支那事変の長期化で米英を始めとする諸外国との関係が悪化の一途を辿っており、海軍士官の拡充が必要だったためとされる。1940年5月30日、貨客船の建造経験が豊富な三菱重工横浜船渠で起工。軍艦ながら、詳細設計の大部分は三菱重工側に任されていた。8月30日に軍艦香椎と命名された。1941年2月14日に進水し、4月2日に艤装員事務所を開設。順調に建造が進む香椎であったが、対米関係の急速な悪化により臨戦態勢に突入し、もはや練習巡洋艦として運用する機会は無かった。このため香椎は建造時から戦闘と旗艦任務を見越した武装を持ち、礼砲を4門から2門に減らして25mm機銃を2基増備、磁気機雷対策の舷外電路も装備していた。そして7月15日に竣工。初代艦長に岩渕三次大佐が着任して佐世保鎮守府に編入された。
7月31日、南部仏印進駐と進駐後の東南アジア方面警備のため帝國海軍は南遣艦隊を新編。香椎、海防艦占守、特設砲艦金剛山丸、特設掃海艇音羽丸、留萌丸、第81警備隊、第81通信隊が所属した。8月2日、南遣艦隊司令平田昇中将が乗艦する旗艦に指定。8月4日、援蒋ルート遮断の目的で行われる南部仏印進駐を支援すべく佐世保を出港。8月11日午前7時にサンジャックへ入港し、第2遣支艦隊から指揮権を引き継いで仏印方面を作戦範囲に定めた。援蒋ルートの遮断には成功したものの、米英からの経済制裁を招く結果となった。
10月18日、南遣艦隊司令に小沢治三郎中将が着任。対米英戦争開戦に備え、10月21日に南遣艦隊は連合艦隊直轄となった。11月5日、南方部隊馬来部隊に編入され、翌日司令部は地上に移動。陸軍のマレー作戦を支援するため後方警備程度の戦力しかなかった南遣艦隊を増強。11月23日、海防艦占守とともにサンジャックを出港し、11月25日に海南島三亜港へ移動。小沢中将は陣頭指揮を執るため旗艦を重巡洋艦にするよう連合艦隊に求め、11月27日に香椎は旗艦の座を重巡鳥海に譲った。12月2日、連合艦隊から「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文を受信。もはや対米開戦は避けられない事態となった。12月4日、マレーに上陸する山下奉文中将の第25軍を乗せた7隻の輸送船を護衛して三亜を出港。
1941年12月8日午前2時30分頃、真珠湾攻撃よりも前にバンドン川河口の北約23海里に入泊して第25軍の上陸支援を行う。続いて第二次マレー上陸船団の護衛のため、12月13日にカムラン湾を出港。軽巡川内とともに39隻の輸送船を護送する。12月15日、船団は二手に別れ、香椎はパタニ方面に向かうグループの護衛に回った。翌16日に船団は目的地に到着、香椎は12月19日まで泊地の警戒を務め、翌朝に軽巡川内や駆逐艦朝霧と合流。12月21日にカムラン湾へ帰投した。12月28日、馬公から出発する第25軍と第15軍の船団を護衛するため出港。
1942年1月3日、南遣艦隊は第1南遣艦隊に改名。この日の15時30分、海南島沖で陸軍徴用船明光丸が焼夷弾の自然発火により火災を起こし、18時30分に爆沈してしまう。すかさず香椎以下護衛艦艇が救助活動を行い、船員と第1挺進団第1連隊約1500名全員が救助された。1月7日、海防艦占守や駆逐艦2隻とともにバンコク行きの船団を護衛して他と別れ、1月9日に無事到着する。1月11日、シンゴラ基地部隊に編入されて同地の警備を担う。翌12日、第1南遣艦隊旗艦の座を重巡鳥海から継承。1月13日夜、シンゴラにカタリナ飛行艇が飛来して銃爆撃を実施。間もなく迎撃の九七式戦闘機が現れ、約15分の空戦のすえにカタリナが発火して海上に墜落。友軍の高射砲部隊からの誤射を受けながらも見事着陸した九七式戦の搭乗員に、岩渕艦長は賞詞を贈った。
次なる任務のため、2月1日にバンコクを出港して翌日カムラン湾へ入港。2月11日、スマトラ島の攻略を担う陸軍部隊を乗せた14隻の輸送船を護衛して出撃。2月16日にバンカとパレンバンに上陸させ、アナンバス諸島へ移動。3月1日、アナンバスから出港する船団を護衛して翌2日にシンガポールへ入港した。
3月8日16時、北スマトラ攻略を企図したT作戦に参加するべく出港。サバン及びクタラジャに上陸する陸軍近衛師団小林支隊を乗せた輸送船8隻を、巡洋艦香椎と由良、駆逐艦6隻、掃海艇4隻、駆潜艇2隻で護衛する。帰路の途上にあった3月12日午前8時50分、バチー島近海で香椎はオランダの小型商船を発見して拿捕。更にクタラジャ沖で曳船、油槽船、小型輸送船、ダルマ船11隻を拿捕。翌13日20時30分、シグリ灯台沖でオランダ商船ザバンバイを拿捕し、22時に第1号掃海艇と第8号駆潜艇に引き渡してペナンに回航させた。3月14日20時、タミアン岬灯台沖で護衛任務を完了してシンガポールに帰投。3月19日からは32隻からなる第56師団の船団を護送し、3月23日18時にラングーンに到着した。3月28日にペナンに帰投した後、輸送船を護衛して出港。ところが4月1日、マラッカ海峡にて英潜水艦トルーアントの雷撃を受け、2隻の輸送船が撃沈されてしまった。同日午後にシンガポールへ入港。翌2日、ビルマに上陸させる第18歩兵師団の輸送船46隻を駆逐艦旗風、敷波とともに護衛して出発。4月4日にペナンまで送り届けた後、香椎は護衛任務から外されて反転し、同日中にシンガポールまで戻った。以降しばらくはシンガポールにて旗艦任務に従事しながら南西方面の防衛を務める。6月3日から14日までケッペル港で入渠整備。6月25日に二代目艦長として重永主計大佐が着任し、7月14日に第1南遣艦隊の司令官が大川内伝七中将に代わった。
7月28日、インド洋及びベンガル湾方面で通商破壊を行う「B作戦」に参加するためシンガポールを出港。集結拠点のメルギーに向かった。7月31日にメルギーへ到着し、8月1日午前8時50分に駆逐艦村雨に横付けして応急修理を行った。しかし8月7日にアメリカ軍がガダルカナル島に襲来したため翌日作戦中止。ラングーンやアンダマン諸島、サバン、ペナンに巡航したのち、8月20日にシンガポールに帰港。南西方面の警備任務に戻る。激戦が続くガダルカナル島争奪戦に増援を送るべく、瀬戸内海と南西方面から陸軍部隊を輸送する事になり、この輸送は「沖輸送」と呼称された。香椎はアメリカの重巡洋艦に見えるよう、射出機支柱の前方に偽装煙突を立てて2本にする工作を行った。9月21日にサイゴンへ寄港し、9月24日に香港へ到着。9月26日、増援部隊を乗せた輸送船2隻を軽巡球磨や水雷艇鵲と護衛して出発する。シブヤン海とサンベルナルジノ海峡を通過して太平洋に出た後、10月7日に駆逐艦有明が護衛に加わった。10月8日、ラバウルに到着。ここで増援部隊は退船した。帰りはダバオを経由して10月19日にシンガポール入港。11月11日、パレンバンに寄港して燃料補給。
アンダマン諸島を防衛拠点化するため陸軍近衛第3連隊第3大隊を増派する事になり、12月4日にシンガポールを出港。12月10日にポートブレアに入港して増援部隊を揚陸した。12月15日、ムンタワイ諸島の陸軍を支援するため香椎の乗組員58名を抽出して臨時の陸戦隊を結成。12月19日にサバンへ入港して陸戦隊を揚陸する。
1943年1月7日、高田俐大佐が三代目艦長に就任。1月16日にシンガポールへ帰投して入渠。1942年末から敵潜水艦の活動が活発化してきた背景もあり、前部マストに対潜見張り所を新設した他、羅針艦橋に防弾板が設置された。1月21日改装完了。3月26日にシンガポールを出港。しばらくマラッカで滞在したのち、4月28日に戻った。インド洋方面では連合軍が反攻の兆しを見せたため、アンダマン諸島に続々と増援が送られる事になった。
7月24日、呉第8特別陸戦隊を乗せた特設運送船屏東丸を第7号掃海艇と護衛してシンガポールを出港。4日後に無事ポートブレアに入港して輸送任務を成功させ、7月31日にシンガポールに戻った。続いて8月17日、部隊と軍需品を載せてシンガポールを出港し、8月22日にニコバル諸島へ到着して揚陸。8月25日にシンガポールに帰投するが、既に次の輸送任務が待っていた。今度はシンガポールからサバンに移送する第331海軍航空隊の整備員を乗せ、8月27日に出港。サバン入港直前の8月29日、英潜水艦トライデントから雷撃を受け、8本の魚雷が伸びてきたが回避に成功。虎口を脱して8月31日にシンガポールに戻った。9月1日から11日まで入渠整備。9月21日、シンガポールを出港してベラワンとポートブレアに部隊を輸送する。以降、11月30日までシンガポールとアンダマン諸島を往来して増援部隊を送り続けた。12月26日、シンガポールを出港して内地に向かう。
1944年1月1日から3日まで高雄に寄港。そして1月6日に佐世保へ入港して工廠に入渠。実に2年以上ぶりの内地であった。1月17日に機密呉鎮守府命令第24号が発令され、鹵獲艦の軽巡平海を呉に回航するよう命じられる。2月1日に出渠した後、佐世保に係留されていた軽巡平海を曳航して佐世保を出港。2月4日に呉へ到着した。姉妹艦鹿島と旧式艦磐手、八雲で編成された呉練習戦隊に編入され、練習艦となる。3月5日、艦長が松村翠大佐となる。翌6日、機密呉鎮守府命令第88号を受領。3月13日から18日まで砲術学校の生徒艦務実習に協力した。3月20日に江田島へ移動し、海軍兵学校を卒業した少尉候補生を大阪まで移送。3月25日、香椎は海上護衛総司令部部隊に編入。
3月30日より呉工廠にて対潜掃討艦へと改装される。使わない煙突両舷の魚雷発射管を撤去して12.7cm連装高角砲2基を装備。単装機銃は38丁と大幅に増やされた。九四式爆雷投射機を左右に2基ずつ装備し、艦後方の司令部居住区を改造して爆雷300個を搭載できるようにした。爆雷庫は対水雷防御のためコンクリート防御が施された。貧弱な防御力にも改良が加えられ、艦内の水密区画を強化するとともに舷窓も下段のものは閉塞されて不沈対策とした。他にも水測兵器の充実が図られている。4月29日改装完了。5月2日に第1海上護衛隊所属となり、船団護衛任務に臨む。瀬戸内海西部で訓練に従事した後、5月24日に門司港へ回航。
5月29日、第7護衛船団司令松山光治少将が香椎に乗艦して将旗を掲げ、陸軍特殊船神州丸や油槽船11隻からなるヒ65船団を護衛して出港。護衛戦力は香椎、商船改造空母海鷹、海防艦淡路、千振、第19号、第60号駆潜艇、敷設艇燕であった。6月2日午前2時45分、高雄東方を航行中に米潜ギターロの襲撃で淡路が撃沈され、回避運動のさなか神州丸と有馬山丸が衝突。搭載爆雷の誘爆で神州丸が大破してしまい、香椎は神州丸を翌日基隆まで曳航した。その後、ヒ65船団に追いついた香椎は護衛任務を続け、6月11日にシンガポールまで到着。6月17日午前4時、高速船で構成されたヒ66船団を護衛して出港。船団は敵潜を警戒し、なるべく大陸に沿って本土を目指した。今回は平穏な航海で終わり、6月26日13時に門司へ帰投。6月28日に呉へ回航された。マリアナ沖海戦の戦訓を受け、対空装備を強化する目的で7月1日から10日まで呉工廠に入渠。単装機銃、22号電探、逆探装置を増備した。7月12日、第5護衛船団司令の吉富説三少将が座乗する旗艦となる。
7月13日、ヒ69船団を護衛して門司を出港。14隻からなる船団を海防艦千振、佐渡、第7号、第17号、商船改造空母神鷹、海鷹、大鷹で護衛する。7月18日午前10時55分に第17号海防艦が被雷小破する災難に見舞われたものの、7月21日に中継地のマニラへ到着。空母が運んでいた航空機を揚陸する。ここで船団の再編成が行われ、香椎は神鷹とともにシンガポールを目指すグループに含まれた。7月25日にマニラを出港。目立った敵襲は無く、7月31日に目的地のシンガポールへ入港できた。8月4日、ヒ70船団を護衛して出港。タンカー8隻を空母神鷹、駆逐艦霜月、海防艦千振、佐渡、第13号、第19号とともに護衛する。道中でマニラから出港してきた軽巡北上(中破)を護衛対象に加えた。8月15日、門司に到着。8月19日より呉工廠に入渠して船体と兵器の整備を受ける。8月24日、呉を出港して門司に回航。
8月25日、ヒ73船団を護衛して出港。加入船舶12隻を空母雲鷹と海防艦7隻で護衛する。翌26日13時、五島列島沖で陸軍配当船音羽山丸が敵潜を探知して爆雷攻撃。8月28日午前11時40分にも海防艦千振と九七式艦攻が対潜攻撃を行うなど緊迫した航海が続く。8月29日、高雄に寄港して同日中に出港。8月31日14時35分、九三式中間練習機が敵潜を発見して2発の発煙弾を投下し、千振と第21号海防艦が対潜制圧に急行する。15時30分に雲鷹所属の九七式艦攻2機が攻撃したのち、2隻が爆雷を投下。しかし敵潜の脅威は留まる所を知らず、20時には音羽山丸が敵潜を探知して爆雷攻撃している。9月1日午前9時、マニラに向かう護国丸、香久丸、吉備津丸、伊良湖が第21掃海隊の護衛を受けて離脱。香椎は残りの船団を率いてシンガポールを目指す。その後も敵潜の探知が続き、夜遅くに九七式艦攻が潜航中の米潜タニーに2発の60kg爆弾を投下。損傷を与えてタニーを撃退した。タニーを退けた後も第19号海防艦や音羽丸が潜水艦を探知して対潜攻撃を実施するなど、気の休まる暇が無かった。幸い大した被害は出ず、9月6日午前9時に解列してシンガポールに入港した。
9月11日、ヒ74船団を護衛して出港。翌12日午後12時45分、雲鷹所属機が海面に浮かぶ油面を発見。潜水艦からの漏油と判断して航空機、第13号、第27号海防艦が爆雷を投下した。だが、ここから悲劇の幕開けだった。9月16日22時31分、米潜クイーンフィッシュが御室山丸を雷撃。幸い命中こそしなかったが、香椎は敵潜襲撃を知らせる赤色弾を打ち上げた。翌17日午前0時34分、バーブが放った魚雷が特設運送船あづさ丸と雲鷹に直撃して大火災が発生。16分後にあづさ丸は爆沈し、雲鷹も船団から落伍したのち午前7時55分に沈没。空からの援護を失った。千振や第27号海防艦等が救助活動を行い、761名を救い上げた。以降の敵襲は途絶え、9月23日に門司へ到着。大損害を受けながらも香椎は生き残った。9月24日から佐世保工廠で入渠整備を行い、10月19日に出渠。瀬戸内海西部で整備と訓練を行う。
10月26日、ヒ79船団を護衛して出港。翌27日に第17号海防艦が、10月28日14時に第21号掃海艇が護衛に加わった。10月29日19時30分、基隆に向かう陸軍徴用船めるぼるん丸が海防艦鵜来と第17号を伴って離脱。翌30日午前7時30分に鵜来が護衛に復帰し、同日中に高雄へ寄港。10月31日に出発する。フィリピン方面では激戦が繰り広げられていたが、11月9日にシンガポール到着。11月15日、海上護衛総司令部第101戦隊が新編され、香椎は海防艦6隻を率いる旗艦となる。11月17日18時、ヒ80船団を護衛してシンガポールを出港。11月20日午後12時40分に第17号海防艦がサンジャックに向かう目的で離脱。翌日から視界不良に悩まされる事となり、衝突を避けるため船団を一時分散させている。11月28日午前9時30分、高雄行きの特設運送船良栄丸、陸軍徴用船有馬山丸、敷設艇新井埼が船団より離脱。残った船舶は12月2日に伊万里湾へ到着し、翌日六連沖まで辿り着いた。
12月19日、香椎は第101戦隊を率いてヒ85船団とモタ38船団を護衛して門司を出港。ルソン島へ増援として送る第23師団(残余)、第19師団、第10師団を乗せていた。敵潜と敵機の襲撃を避けるため大陸沿いの航路を選択し、対馬海峡を通って朝鮮半島西岸を北上。仁川沖から西進して黄海を渡り、山東半島に沿って南下。翌20日21時15分、海防艦対馬と大東が護衛に参加。12月23日に高雄沖に到着。しかしこの高雄も安全ではなく、敵機動部隊接近の報を受けて一時洋上に退避している。12月25日午後、ようやく高雄港内に入った。現地で船団の再編成が行われ、ルソン行きの輸送船4隻が護衛艦艇を伴って先発。12月27日午前、香椎はヒ85船団を護衛して出発する。12月29日17時25分、香港からやって来た第101号掃海艇が護衛に協力。12月30日と31日にB-25爆撃機が触接に現れ、攻撃こそ無かったが不穏な空気に包まれた。
1945年1月1日17時20分、キノン湾に到着。対潜監視に不利な夜間を避けるべく仮泊し、夜が明けた翌2日午前7時に出港。ナトラン沖で仮泊したのち、1月4日にサンジャックへ到着した。ここでシンガポールへの航行を断念し、13時10分にヒ85船団の編成が解かれた。輸送船は生ゴム、石油、ボーキサイト等の貴重な天然資源を積み込む。
1月9日正午、新たに編制されたヒ86船団を護衛して出港。タンカー極運丸、さんるいす丸、大津山丸、昭永丸、貨物船永萬丸、予州丸、辰鳩丸、健部丸、第63播州丸、優清丸からなる船団を第101戦隊の香椎、海防艦鵜来、大東、第23号、第27号、第51号が護衛する。1月11日にバンフォン湾とキノン湾に仮泊して帰国を目指すが…。
1945年1月12日午前9時、少数の敵艦上機が出現して交戦し、これを撃退。だが香椎の命運はここまでだった。敵に発見された事を悟った渋谷司令は接岸航路に変更して船団を二列縦隊にした。陸地側を輸送船を、沖合い側を第101戦隊が航行。香椎は戦隊の先頭に立った。もし敵潜からの雷撃があれば第101戦隊が身を挺して船団を守り、万が一輸送船が被雷しても陸地へ座礁しやすくしていた。
午前11時6分、第38.3任務部隊の敵艦上機16機が出現。香椎は海防艦は12.7cm連装高角砲で対抗し、輸送船も25mm機銃を撃って対空砲火を打ち上げる。まず最初に予州丸が被弾沈没させられた。敵の第二波が現れると、渋谷司令は沈没の時に備えて機密書類を処分するよう命じた。午後12時20分、永萬丸が3発の命中弾を受けて沈没。続いて大津山丸も被弾炎上する。絶望的戦況の中、香椎は決死に輸送船を守り続けた。
13時45分に香椎は2発の直撃弾を受ける。右舷へ2本の魚雷と、艦尾に3発の爆弾が叩き込まれ、弾薬庫に誘爆して艦尾部分が粉砕される。14時5分に総員退艦命令が出され、艦首を突き上げながら沈没。沈む瞬間まで香椎の機銃は火を噴いていたという。右舷に傾きながら沈む香椎の姿は写真として残っており、現在手も見る事が出来る。乗組員621名が戦死し、19名は続航していた鵜来に救助された。14時16分、第26号海防艦が撃沈。14分後に大津山丸が操舵不能となって座礁。護衛が無くなった極運丸は最大の船舶だった事もあって集中攻撃を受け、黒煙を噴き上げながら沈没。最後まで生き残っていたさんるいす丸が16時頃に自ら座礁したのを最後に輸送船団は全滅。生き残ったのは運良くスコールに隠れられた海防艦鵜来、大東、第27号の3隻だけだった。この日だけで33隻の船舶と13隻の戦闘艦が撃沈され、香椎らの沈没は即ち南方航路の閉鎖を意味していた。
1945年3月20日、除籍。
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