黒田官兵衛とは、日本の戦国時代の人物である。諱は孝高(よしたか)。号は如水で、キリスト教における洗礼名はシメオン。歴史好きには、クロカンと呼ばれる事も。
父に小寺家の家臣黒田職隆、子に、福岡藩の初代藩主となる黒田長政。
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小寺家の家老から、羽柴秀吉の軍師にそして豊前中津一二万石の大名になっている。
清廉潔白で腹黒の人。
信長を裏切って籠城した荒木村重を説得しようとして幽閉されたが決して裏切らなかった。
本能寺の変で動揺している秀吉に天下取りの好機と進言して秀吉に警戒されたとかしないとか・・・
一方で大阪城や福岡城等の縄張りをした築城の名人であり、軍事も謀略も政治も出来るチート武将。
また、これぐらいの地位の武将ならいて当たり前の側室がおらず、奥さんが正室一人と珍しい人物でもある。
2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』の主人公として採り上げられることが決まった。配役はV6の岡田准一。
天文15年11月29日(1546年12月22日)、姫路生まれ。1562年に小寺政職の近習となった。このとき姓を小寺と名乗っていたが、父が小寺政職より名乗りを許されていたことによる。
1567年に家督を受け継ぎ、小寺家の家老と姫路城代となり、正室として光(てる)を迎えた。
1564年、妹が浦上清宗に嫁ぐが、結婚式当日に赤松政秀に襲撃され、命を落としてしまう。1569年には赤松政秀が姫路城を3000の兵で襲撃、これをたった300の兵で奇襲を繰り返すことで撃退、のちに政秀は浦上清宗の叔父、浦上宗景に攻められ降伏した。
その後播磨国は西に毛利家、東に織田家に挟まれることとなったが、官兵衛は才能のある織田信長につくことを提案、1575年に信長に謁見し、臣従することとなる。1577年には嫡男の松寿丸(黒田長政)を人質として織田家に出す。
その後羽柴秀吉が播磨国へ進駐させられると、官兵衛は姫路城を差しだし、秀吉の軍師として従うようになる。
1578年に織田家の家臣、荒木村重が離反して毛利家につくと、主君の小寺政職も呼応しようとした。そのため、村重を説得するために有岡城に入るが、逆に幽閉され1年間を土牢で過ごすこととなる。
これに対して信長は、村重とともに裏切ったとして、子の長政を処刑しようとするが、竹中半兵衛(重治)の説得によって免れた。
翌年に織田軍は村重を破って有岡城を攻め落とし、そのときに官兵衛は救出された。すでに小寺家も織田家によって討伐されたことで、姓を黒田に改めた。その後信長から1万石を与えられて正式な織田家の家臣となった。
1581年より、本格的な毛利攻めにおいて秀吉の軍師として帯同、鳥取城へは兵糧攻めで3ヶ月で降伏させることに成功、翌年には備中高松城を攻略する際に水攻めを行った。その際、舟に土嚢を積んたのちに沈めさせることで堤防を作りせき止めるアイデアを出した。
しかしその最中、信長が京都で明智光秀に討たれた(本能寺の変)ことが伝わった。秀吉はorzと打ちひしがれていたが、官兵衛は秀吉に対して毛利家と和睦を結び、急いで光秀を討つべきとアドバイスを行った。秀吉はたった10日で山城国に到達(中国大返し)、山崎の戦いで光秀を破った。
1583年には、落城した安土城に代わる拠点として大坂城の築城に携わる。その年に信長の実質的後継者争いであった賤ヶ岳の戦いにも参戦する。
1584年には毛利家を臣従させることに成功し、さらには紀州の根来衆、雑賀衆と結託した長宗我部家を退けた。このころ、キリスト教に入信、洗礼を受けたとされる。
1585年には、宇喜多秀家による四国攻めに軍師として参戦、おとり作戦を見抜くなどして貢献、長宗我部家の降伏に至った。翌年には大友宗麟の要請による九州征伐の軍師として参戦、毛利家らの大軍勢とともに、九州の大半を平らげていた島津家を打倒、降伏させた。
これにより、官兵衛は豊前国の大半を所領とし12万石を与えられた。その際に居城として中津城を築城した。
1589年、主君の秀吉から天下を取られる疑いをかけられるようになり、半ば失望した官兵衛は家督を長政に譲り、隠居した。その際に如水の号を名乗るようになった。しかしその後も秀吉の軍師として務めている。
翌年の北条家への小田原征伐においては、膠着状態の中で北条家の無血開城への説得にあたり、彼らを降伏させた。秀吉の天下統一において、如水は多くの戦いなどで貢献している。
1592年、秀吉は明の制覇を目指し、朝鮮へと出兵し、如水、長政の親子も参戦する。その際、石田三成と確執が生まれ、それに秀吉が怒ったことで、如水は出家した(すでにキリスト教の禁止令が出されている)。
慶長の役(1597年)においては多くの被害が出たことで戦線の縮小を提案したが、好戦派が秀吉に進言して叱責を買ってしまった。その最中、主君秀吉が死去した。
1600年の関ヶ原の戦いにおいては、如水と長政は徳川家康(東軍)方につき、長政は前線で活躍した。
一方で中津城にいた如水だったが、家の再興を求めて大友義統が石田三成(西軍)方について挙兵、如水はこれに対抗して石垣原の戦いで破った。
東軍の勝利が伝わると、西軍方についていた九州の大名、武将を次々と征伐し、島津家へと攻め入ろうとするが、家康との和議が成立し、撤退した。
その後、長政は筑前国福岡に37万石へ加増転封され、福岡藩を任せられるようになった。如水にも加増の申し入れがあったが辞退し、本格的に隠居生活を始めた。
1604年に死去。享年59歳。
彼の為人をうかがい知る事ができるこのような逸話が存在する。
-関ヶ原の合戦で活躍した実の息子、長政に対して-
長政「父上、家康殿が関ヶ原での勝利は私のおかげだと手を握って感謝をしてくれました。」
如水「お前のもう片方の手はどうしてた?」
長政「何もしてませんが?」
如水「空いた手で家康を殺していれば黒田の天下になっていたのに・・・」
長政「・・・」
しかしこの逸話は大正5年に出版された「黒田如水伝」が出所であり、それ以前の史料には一切登場していない。 また同書は「夢幻物語」という江戸中期に創作された書物を参考にしており、既に故人である利休と茶会をともにしているなどとしており、決して鵜呑みに出来る資料では無いことを明記しておく。
戦国無双3において参戦(CV:高塚正也)。
陰気なおっちゃん・・でもショタ軍師半兵衛より二歳下らしい。
戦国BASARA3において参戦(CV:小山力也)。
豪快なあんちゃん。自分を拘束していた鎖を武器に大暴れ。
「天下に今こそ知らしめん、我が智、我が策を!」
Ver2.00豊臣家で参戦。レアリティはスーパーレア。CV:立花慎之介。
スペックは伏兵と豊国持ちで6/10の2コス弓足軽、とまあまあ。
計略「破凰の謀陣」は日輪の妨害陣形で、ゲージを3つ使用した大絢爛では士気6とは思えない低下になる。効果時間もかなり長い…がVer2.00Aでは他にもっとやばい豊臣武将が多数いたのと弓足軽自体の性能が低かったため使用率は低かった。Ver2.00Bでは弓足軽の性能も上方され、時間も長くなったため活躍が期待される。
とは言え時間は長いものの範囲がかなり物足りないため、裏回りに弱過ぎるのが最大の問題。
「我らが進む道は、新しき戦、新しき支配!」
センゴクの姿としても登場している。SRとは違い伏兵がなくなった代わりに防柵、槍足軽になっている。
計略は竹中半兵衛の「今孔明の軍法」をもじった「今張良の軍法」。豊臣家特徴の日輪計略である。
日輪の消費量と効果を受けた部隊の数によって効果が変動するというややこしい仕様だが、日輪を消費すれば効果は士気相応になる。特に3消費だと大名采配以上の武力が上がって更に移動速度まで上がる。自分は範囲に入らないがそれは二連打可能ということでもあり瞬間爆発力は秀吉の「日輪の天下人」に匹敵する。士気全部使うけど。
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最終更新:2025/12/07(日) 11:00
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