RAINBOW(レインボー Ritchie Blackmore's Rainbow)とはイギリスのハードロックバンドである。
1975年にDEEP PURPLEを脱退したリッチー・ブラックモアがロニー・ジェイムス・ディオ率いる元ELFのメンバーを引き抜く形で結成。
1975年、「銀嶺の覇者」でデビューをするも、リッチーは早くもロニー以外のメンバーを解雇する。
以降、1984年の解散までアルバムをリリースする度にメンバーチェンジを行い続けてきた。
1974年夏、当時DEEP PURPLEに在籍していたリッチー・ブラックモアはバンドの方針に不満を持っていた。
理由の一つに挙げられるのがQUATERMASSの「Black sheep of The Family」のカヴァーを却下された事であった。
その事を不満に思っていたリッチーは、ソロアルバムを作る事を決意。リッチーは早速ELFのロニー・ジェイムス・ディオにアプローチし、録音。 その後「Black sheep of The Family」のB面に「Sixteenth Century greensleeves」も作曲、レコーディング。
リッチーはロニーの歌唱力と楽曲の完成度に満足し、関係が悪化していたDEEP PURPLEを脱退したいと言う思いが更に強まっていった。
そして、1975年3月にDEEP PURPLEを脱退。リッチーはロニーに再度アプローチを仕掛け、ELFのメンバーを吸収すうr形でRAINBOWは結成され、8月に「RICTIE BLACKMORE’S RAINBOW」(邦題:銀嶺の覇者)がリリースされた。
1stアルバムをリリースしたRAINBOWはすぐさまリハーサルに入る。
アルバムの完成度が高く、満足していたリッチーだが、リハーサル中に各メンバーの演奏技術に不満を持つようになる。
アルバムリリースから1ヵ月後、クレイグ・グルーパーが解雇され、その次にゲイリー・ドリスコール、最後にミッキー・リー・ソウルが解雇される。第1期RAINBOWはあっけなく崩壊した。
その後、オーディションで加入した元JEFF BECK GROUPのコージー・パウエル、元HARLOTのジミー・ベイン、アメリカ人キーボーティストのトニー・カレイが加入。こうしてリッチー、ロニー、コージーによる“三頭政治”が誕生する。
第1期のメンバーで一度もライブを行わないままメンバーチェンジしたバンドは11月に北米ツアー、76年1月にヨーロッパ・ツアーを行う。
ツアー終了後に2ndアルバムのレコーディングをミュンヘンで行う。前作とは打って変わって各メンバーとのパワフルなバトルが収録された名盤「RAINBOW RISING」(邦題:虹を翔ける覇者)が完成する。
この作品では特にB面に収録された「STARGAZER」「A LIGHT IN THE BLACK」は1stアルバムのレコーディングの時点でアイデアがあったようで、楽曲の完成に8ヶ月も費やしたという。
そして、1976年12月に初来日公演を行う。この時の日本武道館公演の一部は翌年1977年にリリースされたライブアルバム「ON STAGE」(邦題:レインボー・オン・ステージ)に収録されたが、その時のメンバーであるジミーとトニーが解雇。
ベースは一時期マーク・クラークが加入していたが、長く続かずバンドは後にボブ・デイズリー、キーボードにデイヴィッド・ストーンをスタジオミュージシャン契約で加入、後にこの時のメンバーによるミュンヘン公演を収録したDVD『Live in Munich 1977』が2005年にリリースされた。
このミュンヘン公演は日本でもNHKの『ヤング・ミュージック・ショー』で一部が放送されたものであり、2005年に公式にリリースされるまでドイツの番組で放送された「完全版」を含めて20年近くブートレッグ市場に「名演」として出回っていた 代物である。
1978年、前作よりもアメリカ市場を意識し、コマーシャルな楽曲を取り入れた「LONG LIVE ROCK'N'ROLL」がリリースされ、来日公演を行ったが札幌公演で思わぬ悲劇に遭遇する。
1月27日。札幌中島スポーツセンターで行われた公演で女性客が圧死する事故が起きた。
当時のコンサートでは開演したと同時にステージの前まで詰め寄る行為が許されていたが為に転倒した女性が大勢の人達に踏まれて下敷きとなり圧死してしまう事故が発生。
事故が発生してもプロモーターであるキョードー札幌も演奏をすぐに止める事をしなかったが為に観客の大半は公演終了後に女性客が死亡した事を知らされる事になった。
キョードー札幌の社長の弁によれば、会場に入っていた客は数千人程とのことで、警備に関して30人以上の警備を配置したが、開演と同時に観客が押し寄せてきた為に防ぎきれなかったと語っている。なお、死亡した女性が座っていた席はステージ前よりも7列目であったと言う。
この事件が切っ掛けでコンサート会場における警備体制が厳しくなり、数年ほどコンサートではジャンル問わず座って観覧するようになってしまった。
この事件を知らない海外アーティストは日本人=大人しいと思い込んでいた者も多く見られた。
コンサート終了から数日後、リッチーは遺族に500万円もの見舞金を送った。
※動画のタイトルに1月28日とあるが、27日が正しい日程である。
その後もツアーを続けたバンドはプロデューサーにDEEP PURPLE時代の盟友ロジャー・グローバーを向かえ、次回作の製作とレコーディングに入るが、アメリカ市場を制覇したい思いが強いリッチーがロニーに「中世ファンタジーではなくラブソングを書け!」と言われた事に反発し、ロニーは脱退。
ロニー脱退後にボブ、デイヴィッドも脱退したが、後にリッチーはボブが抜けた事に関して「ボブは良い奴だし、オジー・オズボーンのところで良い曲を書いた。だが、俺は彼が曲が書けるとは思いもしなかった」と後悔したかのような発言をしている。
1979年4月、ボーカルが不在のままフランスのスタジオでリハーサルを開始。
この時点で、キーボードにドン・エイリー、ベースにコージーの旧友である元ジェフ・ベック・グループのクライヴ・チェアマンが加入。二人ともコージーの紹介によるものだったが、クライヴは2週間で脱退した。
コージーによればクライヴとのセッションは最高だったが、RAINBOWの音楽性にモータウン系のノリが合わなかったと言う事でクライヴの加入を断念せざる得ないと判断したモノであった。
ベーシスト不在のままではマズイという事で仕方なくロジャーがベースも兼任する事になり、1984年の解散まで在籍する事になる。
ある日、メンバーがゲームか何かで遊んでいた時にたまたま流れたMARBLESの「Only One Woman」がリッチーに耳に触れ、このシンガーを探そうと提案。
こうしてバンドは元MARBLESのグラハム・ボネットの加入が決まり、1979年8月には「Down To Earth」が発売された。
シングルカットされたラス・バラードのカヴァー「Since You Been Gone」が全英4位、全米51位とそれなりの成功を収めたが、バンド内部は既にガタガタな状態であった。
その中でもコージーは「Since You Been Gone」 のようなポップ過ぎる楽曲を収録する事を反対していたが、全米を制覇したいと考えるリッチーの姿勢に反発を覚えるようになり、1980年8月の第1回目の『MONSTERS OF ROCK』でのライブを最後に脱退。
また、グラハムもリッチーとは衣装やルックスに関して喧嘩になる事が多く、カジュアルな服装にオールバックな髪型のグラハムに対して「皮ジャン着て長髪にしろ!」と何度も警告したが、グラハムは一貫して自分のスタイルを貫き通しただけに、リッチーが激怒しグラハムの衣装を捨てると言う行為にまで及び関係が悪化。また、グラハムはリッチーの当時の恋人を罵倒するなど、問題は山積みであった。
コージー脱退後にレコーディングに入るが、グラハムとリッチーのロジャーの関係は更に悪化しているものの、後任が中々見つからない為、渋々メンバーにしていたが、その間にもリッチーはロングアイランド周辺でシンガーを探していた。
知り合いからFANDANGOと言うバンドのレコードを聴かされたリッチーはボーカリストであったジョー・リン・ターナーに興味を持ち、早速連絡を取る。
こうしてオーディションの結果ジョーの加入が決定し、グラハムを追い出す事に成功。
ロジャーの弁ではグラハムは「ブルーズなんか歌えない」と言って脱退したとコメントをしているが、この件に関してはグラハムはMETALLION誌のインタビューで「そんな事を言った覚えは無い」と否定している。
コージーの後任に選ばれたのはボビー・ロンディネリと言う人物に決定したが、このボビー、実はRAINBOWの前にKISSのオーディションも受け、ピーター・クリスの後任に選ばれた経緯があるが、公式に発表する前にマスコミに喋ってしまったが為に取り消しにされたマヌケな人物である。
こうして、1981年にアルバム『Difficult to Cure(邦題:アイ・サレンダー)』がリリースされた。
前作以上にポップな楽曲が増えたものの、イギリスで3位、アメリカで50位と全米制覇と言うには厳しいものであった。
同年の夏にはドン・エイリーが脱退。コージーの抜けたRAINBOWでプレイするのに苦痛だった事が影響している。
(※一部ではドンの服装センスの酷さが原因でリッチーがご立腹だったと言う説もある)
バンドのマネージャーであるブルース・ペインは経費削減の為にキーボードを排除したまま活動を続けるようにリッチーに提言したが、当然リッチーに拒否され、バンドは20歳の新人デイヴィッド・ローゼンタールを加入。
1982年には『Straight Between The Eyes』(邦題:闇からの一撃)をリリース。1stアルバム以来の全米TOP40入りを果たし、かつてない成功を収めた。
だが、この頃、リッチーのマネージャーであったブルーズがイアン・ギランのマネージャーと接触し、DEEP PURPLEの再結成を目論み、話し合いが進められた…
1983年3月、ボビーに代わりチャック・バーギが加入。10月にはアルバム「Bent Out of Shape」(邦題:ストリート・オブ・ドリームス)がリリースされ、9月から全英、10月に全米、1984年にヨーロッパ、3月には日本ツアーが行われ、数ヵ月後にはライブビデオ「RAINBOW JAPAN TOUR’84」がリリースされた。
解散の理由として、リッチーとロジャーが再結成DEEP PURPLEに参加すると言うものであった。
後に発覚した事であるが、多額の金を儲ける為にマネージャーのブルーズ・ペインがDEEP PURPLEを再結成させる為にあの手この手を使ってRAINBOWを解散させたのである。
この頃のイアン・ギランはBLACK SABBATHに在籍していたものの、お世辞にも成功したとは言えない結果を残しており、BLACK SABBATH加入以前に活動していたIAN GILLAN BANDも思っていた以上に起動に乗れなかった。
そこで、イアンのマネージャーとブルースはDEEP PURPLEの再結成を目論み、リッチーに「ジョーがソロをやりたがっているんだ」と吹き込まれ、更にジョーには「リッチーとロジャーがDEEP PURPLE」をやりたがっているんだと吹き込んでいたのである。
後にこの話を知ったリッチーはBURRN!誌のインタビューで「私はいつかブルース・ペインを訴えなければならない」と発言していた。
バンドメンバーとの関係は崩れはしなかったが、RAINBOWは各メンバーのビジネス上の理由により活動を休止した。
※ギターは一貫してリーダーであるリッチー・ブラックモア。本項目ではアルバムリリース時のメンバーを掲載する
アルバム | ボーカル | ベース | キーボード | ドラム |
『銀嶺の覇者』 (1975年) |
ロニー・ジェイムス・ディオ | クレイグ・グルーパー | ミッキー・リー・ソウル | ゲイリー・ドリスコール |
『虹を翔ける覇者』 (1976年) |
- | ジミー・ベイン | トニー・カレイ | コージー・パウエル |
『バビロンの城門』 (1978年) |
- | ボブ・デイズリー | デイヴィッド・ストーン | - |
『ダウン・トゥ・アース』 (1979年) |
グラハム・ボネット | ロジャー・グローヴァー | ドン・エイリー | - |
『アイ・サレンダー』 (1981年) |
ジョー・リン・ターナー | - | - | ボビー・ロンディネリ |
『闇からの一撃』 (1982年) |
- | - | デイヴィッド・ローゼンタール | - |
『ストリート・オブ・ドリームス』 (1983年) |
- | - | - | チャック・バーギ |
『孤高のストレンジャー』 (1995年) |
ドゥギー・ホワイト | グレッグ・スミス | ポール・モリス | ジョン・オライリィ |
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最終更新:2024/03/29(金) 02:00
最終更新:2024/03/29(金) 02:00
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