RAINBOW(バンド)単語

レインボー

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RAINBOWレインボー Ritchie Blackmore's Rainbow)とはイギリスハードロックバンドである。

概要

1975年DEEP PURPLEを脱退したリッチー・ブラックモアロニー・ジェイムス・ディオ率いる元ELFメンバーを引き抜く形で結成。
1975年、「嶺の覇者」でデビューをするも、リッチーくもロニー以外のメンバー解雇する。
以降、1984年の解散までアルバムリリースする度にメンバーチェンジを行い続けてきた。

1995年に再結成するも、1997年に活動休止。

来歴

結成まで

1974年、当時DEEP PURPLEに在籍していたリッチー・ブラックモアバンドの方針に不満を持っていた。
理由の一つに挙げられるのがQUATERMASSの「Black sheep of The Family」のカヴァーを却下された事であった。
その事を不満に思っていたリッチーは、ソロアルバムを作る事を決意。リッチーELFロニー・ジェイムス・ディオアプローチし、録音。 その後「Black sheep of The Family」のB面に「Sixteenth Century greensleeves」も作曲レコーディング
リッチーはロニーの歌唱と楽曲の完成度に満足し、関係が悪化していたDEEP PURPLEを脱退したいと言う思いが更に強まっていった。
 そして、1975年3月DEEP PURPLEを脱退。リッチーはロニーに再度アプローチを仕掛け、ELFメンバーを吸収すうr形でRAINBOWは結成され、8月に「RICTIE BLACKMORE’S RAINBOW」(邦題:嶺の覇者)がリリースされた。

三頭政治の誕生

1stアルバムリリースしたRAINBOWはすぐさまリハーサルに入る。
アルバム完成度が高く、満足していたリッチーだが、リハーサル中に各メンバー演奏技術に不満を持つようになる。
アルバムリリースから1ヵ後、クレイグ・グルパー解雇され、その次にゲイリー・ドリスコール、最後にミッキー・リー・ソウル解雇される。第1期RAINBOWはあっけなく崩壊した。

その後、オーディションで加入した元JEFF BECK GROUPコージー・パウエル、元HARLOTのジミーベインアメリカキーボティストのトニーカレイが加入。こうしてリッチー、ロニー、コージーによる“三頭政治が誕生する。
第1期のメンバーで一度もライブを行わないままメンバーチェンジしたバンド11月に北ツアー、76年1月ヨーロッパツアーを行う。
ツアー終了後に2ndアルバムレコーディングミュンヘンで行う。前作とは打って変わって各メンバーとのパワフルバトルが収録された名盤「RAINBOW RISING」(邦題:ける覇者)が完成する。
この作品では特にB面に収録された「STARGAZER」「A LIGHT IN THE BLACK」は1stアルバムレコーディングの時点でアイデアがあったようで、楽曲の完成に8ヶも費やしたという。

そして、1976年12月に初来日演を行う。この時の日本武道館演の一部は翌年1977年リリースされたライブアルバム「ON STAGE」(邦題:レインボーオンステージ)に収録されたが、その時のメンバーであるジミートニー解雇
ベースは一時期マーククラークが加入していたが、長く続かずバンドは後にボブデイズリー、キーボードデイヴィッド・ストーンをスタジオミュージシャン契約で加入、後にこの時のメンバーによるミュンヘン演を収録したDVDLive in Munich 1977』が2005年リリースされた。
このミュンヘン演は日本でもNHKの『ヤングミュージックショー』で一部が放送されたものであり、2005年公式リリースされるまでドイツの番組で放送された「完全版」を含めて20年近くブートレッグ市場に「名演」として出回っていた 代物である。

札幌公演での事故~三頭政治の崩壊

1978年、前作よりもアメリカ市場を意識し、コマーシャルな楽曲を取り入れた「LONG LIVE ROCK'N'ROLL」がリリースされ、来日演を行ったが札幌演で思わぬ悲劇に遭遇する。
1月27日札幌中島スポーツセンターで行われた演で女性客が圧死する事故が起きた。
当時のコンサートでは開演したと同時にステージの前まで詰め寄る行為が許されていたが為に転倒した女性が大勢の人達に踏まれて下敷きとなり圧死してしまう事故が発生。
事故が発生してもプロモーターであるキョードー札幌演奏をすぐに止める事をしなかったが為に観客の大半は演終了後に女性客が死亡した事を知らされる事になった。
キョードー札幌社長の弁によれば、会場に入っていた客は数千人程とのことで、警備に関して30人以上の警備を配置したが、開演と同時に観客が押し寄せてきた為に防ぎきれなかったとっている。なお、死亡した女性が座っていた席はステージ前よりも7列であったと言う。
この事件が切っ掛けでコンサート会場における警備体制が厳しくなり、数年ほどコンサートではジャンル問わず座って観覧するようになってしまった。
この事件を知らない海外アーティスト日本人大人しいと思い込んでいた者も多く見られた。
コンサート終了から数日後、リッチーは遺族に500万円もの見舞を送った。 

動画タイトル1月28日とあるが、27日が正しい日程である。

その後もツアーを続けたバンドプロデューサーDEEP PURPLE時代の盟友ロジャーグロバーを向かえ、次回作の製作レコーディングに入るが、アメリカ市場を制覇したい思いが強いリッチーがロニーに「中世ファンタジーではなくラブソングを書け!」と言われた事に反発し、ロニーは脱退。
ロニー脱退後にボブデイヴィッドも脱退したが、後にリッチーボブが抜けた事に関して「ボブは良いだし、オジー・オズボーンのところで良い曲を書いた。だが、は彼が曲が書けるとは思いもしなかった」と後悔したかのような発言をしている。 

グラハム・ボネットの加入

1979年4月ボーカルが不在のままフランススタジオリハーサルを開始。
この時点で、キーボードドンエイリー、ベースにコージーの旧友である元ジェフ・ベックグループクライヴ・チェアマンが加入。二人ともコージーの紹介によるものだったが、クライヴは2週間で脱退した。
コージーによればクライヴとのセッションは最高だったが、RAINBOW音楽性にモータウン系のノリが合わなかったと言う事でクライヴの加入を断念せざる得ないと判断したモノであった。
ベーシスト不在のままではマズイという事で仕方なくロジャーベースも兼任する事になり、1984年の解散まで在籍する事になる。

ある日、メンバーゲームか何かで遊んでいた時にたまたま流れたMARBLESの「Only One Woman」がリッチーに触れ、このシンガーを探そうと提案。


こうしてバンドは元MARBLESのグラハム・ボネットの加入が決まり、1979年8月には「Down To Earth」が発売された。 
シングルカットされたラスバラードカヴァーSince You Been Gone」が全英4位、全51位それなりの成功を収めたが、バンド内部は既にガタガタな状態であった。
その中でもコージーは「Since You Been Gone」 のようなポップ過ぎる楽曲を収録する事を反対していたが、全を制覇したいと考えるリッチーの姿勢に反発を覚えるようになり、1980年8月の第1回の『MONSTERS OF ROCK』でのライブを最後に脱退。

また、グラハムもリッチーとは衣装やルックスに関して喧嘩になる事が多く、カジュアル装にオールバック髪型のグラハムに対して「皮ジャン着て長にしろ!」と何度も警告したが、グラハムは一貫して自分のスタイルを貫き通しただけに、リッチー激怒しグラハムの衣装を捨てると言う行為にまで及び関係が悪化。また、グラハムはリッチーの当時の人を罵倒するなど、問題は山積みであった。

ジョー・リン・ターナー加入

コージー脱退後にレコーディングに入るが、グラハムとリッチーロジャーの関係は更に悪化しているものの、後任が中々見つからない為、渋々メンバーにしていたが、その間にもリッチーロングアイランド周辺でシンガーを探していた。
知り合いからFANDANGOと言うバンドレコードを聴かされたリッチーボーカリストであったジョー・リン・ターナー興味を持ち、速連絡を取る。
こうしてオーディションの結果ジョーの加入が決定し、グラハムを追い出す事に成功。

ロジャーの弁ではグラハムは「ブルーズなんか歌えない」と言って脱退したとコメントをしているが、この件に関してはグラハムはMETALLION誌のインタビューで「そんな事を言った覚えはい」と否定している。

コージーの後任に選ばれたのはボビー・ロンディネリと言う人物に決定したが、このボビー、実はRAINBOWの前にKISSオーディションも受け、ピータークリスの後任に選ばれた経緯があるが、公式に発表する前にマスコミに喋ってしまったが為に取り消しにされたマヌケな人物である。 

こうして、1981年アルバム『Difficult to Cure(邦題:アイ・サレンダー)』がリリースされた。
前作以上にポップな楽曲が増えたものの、イギリスで3位、アメリカで50位と全制覇と言うには厳しいものであった。

同年のにはドンエイリーが脱退。コージーの抜けたRAINBOWプレイするのに苦痛だった事がしている。
(※一部ではドンセンスの酷さが原因でリッチーがご立だったと言う説もある)
バンドマネージャーであるブルース・ペインは経費削減の為にキーボードを排除したまま活動を続けるようにリッチーに提言したが、当然リッチーに拒否され、バンドは20歳の新人デイヴィッドローゼンタールを加入。 

1982年には『Straight Between The Eyes』(邦題:闇からの一撃)をリリース1stアルバム以来の全TOP40入りを果たし、かつてない成功を収めた。

だが、この頃、リッチーマネージャーであったブルーズがイアンギランのマネージャーと接触し、DEEP PURPLEの再結成を論み、話し合いが進められた…

一度目の解散~DEEP PURPLEの再結成

1983年3月、ボビーに代わりチャックバーギが加入。10月にはアルバム「Bent Out of Shape」(邦題:ストリートオブドリームス)がリリースされ、9月から全英、10月に全1984年ヨーロッパ3月には日本ツアーが行われ、数ヵ後にはライブビデオRAINBOW JAPAN TOUR’84」がリリースされた。

しかし、RAINBOWに解散を発表した。

解散の理由として、リッチーロジャーが再結成DEEP PURPLEに参加すると言うものであった。
後に発覚した事であるが、多額のける為にマネージャーブルーズ・ペインDEEP PURPLEを再結成させる為にあの手この手を使ってRAINBOWを解散させたのである。

この頃のイアンギランはBLACK SABBATHに在籍していたものの、お世辞にも成功したとは言えない結果を残しており、BLACK SABBATH加入以前に活動していたIAN GILLAN BANDも思っていた以上に起動に乗れなかった。
そこで、イアンマネージャーブルースDEEP PURPLEの再結成を論み、リッチーに「ジョーソロをやりたがっているんだ」と吹き込まれ、更にジョーには「リッチーロジャーDEEP PURPLE」をやりたがっているんだと吹き込んでいたのである。

後にこの話を知ったリッチーBURRN!誌のインタビューで「私はいつかブルース・ペインを訴えなければならない」と発言していた。

バンドメンバーとの関係は崩れはしなかったが、RAINBOWは各メンバービジネス上の理由により活動を休止した。

メンバー時系列

ギターは一貫してリーダーであるリッチー・ブラックモア。本項ではアルバムリリース時のメンバーを掲載する

アルバム ボーカル ベース キーボード ドラム
嶺の覇者
1975年) 
ロニー・ジェイムス・ディオ レイグ・グルパー ミッキー・リー・ソウル ゲイリー・ドリスコール
ける覇者
1976年) 
- ジミーベイン トニーカレイ コージー・パウエル
バビロン門』
1978年) 
- ボブデイズリー デイヴィッド・ストーン -
ダウン・トゥ・アース
1979年) 
グラハム・ボネット ロジャーグロヴァー ドンエイリー -
『アイ・サレンダー
1981年) 
ジョー・リン・ターナー - - ボビー・ロンディネリ
『闇からの一撃』
1982年) 
- - デイヴィッドローゼンタール -
ストリートオブドリームス
1983年) 
- - - チャックバー
『孤高のストレンジャー』
1995年) 
ドゥギー・ホワイト グレッグスミス ポールモリス ジョン・オライリィ

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最終更新:2024/03/29(金) 02:00

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